カント『法論』#5(道徳の形而上学への序論#3)

道徳の形而上学への序論

道徳の形而上学への序論
 1.人間の心の能力と道徳法則の関係について
 2.道徳の形而上学の理念と必然性について
 3.道徳の形而上学の区分について
 4.道徳の形而上学への予備概念

第4節は本来第3節の前に挿入されるべきであったのではないかということが指摘されている(B. Ludwig)。実際、第3節を読む前にこちらを読んだほうが論理的に自然であるように思われる。また、この節自体の論述順序にも相当な不自然さがあるが、とりあえずそのまま訳出している。

4.道徳の形而上学(普遍的実践哲学philosophia practica universalis)への予備概念【221】

 自由の概念は純粋な理性概念であり、まさにそれゆえ理論哲学にとって超越したもの、すなわち何らかの可能な経験のうちにふさわしい実例が与えられるようなことのない概念である。したがってそれは、我々に可能な理論的認識の対象を構成するものではなく、思弁理性の構成的原理ではありえず、ただ統制的でしかもただ単に消極的原理としてみなされなければならない。しかし、理性を実践的に使用するにあたっては、自由の概念は自らの実在性を実践的原則を通じて証明するのである。実践的原則は、法則として、つまりあらゆる経験的条件(感性的なもの一般)に依存しない純粋理性の因果性として、選択意志を規定し、我々の内なる純粋意志を証明する。純粋意志のうちに、道徳的概念と法則は自らの根源を持つからである 。

 このような(実践的観点における)自由の積極的概念にこそ、道徳的と呼ばれる無条件的な実践的法則がもとづいているのだ。選択意志が感性的に触発され、それゆえにそれ自体では純粋意志と適合しないどころかしばしばそれに抵抗しさえする我々にとって、この法則は命法(命令あるいは禁止)であり、しかも定言的(無条件の)命法である。この点で実践法則は、常に条件的にしか命じることのない技巧的命法(技術の指示)からは区別される。実践法則を基準として、何らかの行為が許容されるか許容されないか、すなわち道徳的に可能か不可能かということになり、またある種の行為かその行為の反対が道徳的に必然、すなわち拘束的だということになる。こうしたところから、拘束的とされた行為に対して義務の概念が生じる。義務を遵守したり義務に違反したりすることは、確かに何らかの仕方で(道徳感情のあり方において)快・不快と結びついてはいるが、それについて理性の実践法則は一切考慮しないのである(というのも、快・不快は実践法則の根拠ではなく、ただそれによって我々の選択意志が規定される場合に心のなかで主観的に作用しているものにだけ妥当するからであり、(実践法則の妥当性や影響力に対して、客観的に、つまり理性の判断において、何かを付け加えたり奪い取ったりすることなく)主体の多様性に応じて異なりうるものなのだから)。

 【222】以下の諸概念は、道徳の形而上学の〔法論・徳論という〕両方の部分に共通のものである。

 拘束は、理性の定言命法のもとでの、自由な行為の必然性である。

 命法とは実践的規則であり、それによってそれ自体では偶然的な行為が必然的なものになる。命法が実践法則から区別されるのは、次の点に関してである。実践法則は確かに、ある行為が必然的になされねばならないことを表象するが、このことがそれ自体ですでに行為する主体にとって(例えばなんらかの神聖な存在者のように)必然のものとして内属しているのか、それとも(例えば人間のように)偶然的なものだったのか、ということは考慮しない。というのも、前者の場合であれば、いかなる命法も存在しないからである。したがって、命法は、規則として表象されることで、主体にとって偶然的な行為を必然的なものにするのであり、主体はこの規則との一致を強要されなければならない(余儀なくされる)ものとして表象される。定言的(無条件の)命法は、何か間接的な仕方でではなく、つまり行為を通じて達成される目的を表象することによってではなく、行為自体(その形式)をただ表象することによって、したがって客観的に必然なものとして直接的にその行為を思考し、必然的なものとする。命法は(道徳的な)拘束を規定する唯一の実践的教説として、この行為を実例として持ち出すことができる。その他の一切の命法は技巧的であり、総じて条件付けられたものである。他方、定言命法の可能性の根拠は、次の点にある。定言命法は、ただ選択意志の規定(これによって選択意志に意図を与えることができる)に関して、選択意志の自由にしか関係しない。

 許容されている(licitum)のは、拘束に反しない行為である。そして、反対の命法に制限されていないこの自由が、権能(道徳的能力facultas moralis)と呼ばれる。ここから自ずと明らかになるのは、何が許容されていないか(illicitum)ということである。

 義務は、人がそれへと結び付けられている行為である。それはしたがって拘束の質料であり、我々は色々な仕方でそれに結び付けられうるが、(行為としては)義務は同じものである。

 定言命法は、ある行為に関する拘束を言明するのだから、道徳-実践的な法則である。【223】しかし拘束は単に(法則というもの一般が言明する)実践的必然性だけでなく強要をも含んでいるので、考えられている〔定言〕命法は命令の法則か禁止の法則のいずれかであり、それに応じて作為か不作為が義務として表象される。命令されても禁止されてもいない行為は、単に許容されている。なぜならそれに関しては自由(権能)を制限する法則はなく、したがってどんな義務も存在しないからである。こうした行為は道徳的にどうでもよい(どうでもよいことindifferens、adiaphoron、単なる能力の事柄res merae facultatis)と呼ばれる。問題になるのは、このような行為が存在するのか、存在するとすれば、任意に何かをしたりしなかったりすることが任されていると言えるためには、命令法則(lex praeceptiva, lex mandati)と禁止法則(lex prohibitiva, lex vetiti)以外にさらに許容法則(lex permissiva)が必要なのかどうか、ということである 。もし許容法則が必要なら、権能は、それ自体でどうでもよい行為(adiaphoron)には関わらないだろう。というのも、そうした行為が存在したとして、それを道徳法則から考えた場合、そうした行為に対してはいかなる特殊な法則も必要がなくなってしまうだろうからである。

 ある行動が行為と呼ばれるのは、それが拘束の法則のもとにあるかぎり、したがって主体が自らの選択意志の自由にしたがって行動しているとみなされるかぎりでのことである。行動する者はこうした〔選択意志の自由による〕働きを通してその帰結の創始者とみなされ、この帰結とその行動はともども行動する者に帰されうるが、それはその行為や帰結を拘束することになる法則があらかじめ知られている場合である。

 人格とは、その行為に責任を帰することが可能である主体である。したがって精神的人格性とは、道徳法則のもとでの理性的存在者の自由にほかならない(これに対して、心理学的人格は、自分の存在が様々な状態にあっても同一であるということを意識する能力にすぎない)。したがって、人格は、自らが(独りでか、あるいは少なくとも同時に他の人格と)自らに与えた法則以外のものには服さない。

 物件は、決して帰責することができない物である。自由な選択意志のいかなる客体も、それ自体では自由を欠いているのなら、物件(有体物res corporalis)と呼ばれる。
行為が一般に正しい・正しくない(rectum aut minus rectum)と言われるのは、それが義務に適っているか義務に反している(許容されているか許容されていない行為factum lictum aut illicitum)ためである。【224】義務自体は、内容か起源に応じて、どのような種類かが決まる。義務に反した行為は、違反(reatus)と呼ばれる。

 故意ではない違反も確かに帰責されうるが、それは過失(cupla)と呼ばれる。故意の(つまり、違反であるという意識と結びついた)違反は、罪悪(dolus)と呼ばれる。外的な法則にしたがって正しいことは正当(iustum)、そうでなければ不正(iniustum)と呼ばれる。

 義務同士の衝突(義務同士のあるいは拘束同士の衝突collisio officiorum s. obligationum)があるとすれば、一方の義務が他方の義務を(すべてか部分的にか)廃棄してしまうような義務同士の関係性だということになるだろう。しかし、義務と拘束は一般に、ある行為が客観的・実践的に必然であるということを表現する概念であり、また二つの互いに対立する規則は同時には必然的ではありえず、ある規則にしたがって行為することが義務であれば、それに対立する規則にしたがって行為することは義務でさえなくむしろ義務に反していさえする。それだから、義務や拘束の衝突は考えることができない(拘束同士は衝突しないobligationes non colliduntur)。ところが、拘束の二つの根拠(rationes obligandi)は、一方あるいは他方の根拠が義務付けのためには十分ではない(拘束の根拠によって拘束されないrationes obligandi non obligantes)ということがあり、それらの根拠が主体やそれを命じる規則において、結合しているということがある。その場合は、一方は義務ではないのである。こうした二つの根拠が互いに矛盾している場合であっても、実践哲学においては、より強い拘束が優先する(fortior obligation vincit)とは言わず、より強い義務付け根拠が座を占める(fortior obligandi ratio vincit)と言うのである。

 一般に、外的な立法が可能な拘束的な法則は外的法則(leges externae)と呼ばれる。外的法則のなかには、外的立法がなくともその法則に対する拘束が理性によってア・プリオリに認識されうるものもある。それは外的法則ではあるが、自然法である。これに対して、実際に外的立法がなければまったく拘束力を持たない(したがって、外的立法なしには法則ではない)ものもあるが、それは実定法と呼ばれる。したがって、単に実定法しか含まない外的立法も考えられる。しかしこの場合、そうは言ってもその立法に対して自然法が先行していなければならないだろう。自然法が先行していることで、立法者の権威(つまり、自分の恣意のみによって他人を拘束する権能)が確立されるからである。

 【225】ある行為を義務にする原則は、実践的法則である。行為者が自分で主観的な理由から原理とするような規則は、格率と呼ばれる。したがって、同じような法則のもとにおいても、行為者の格率は非常に異なりうることがある。

 どんな行為が拘束的であるのかだけを言明する定言命法は、一般に、「同時に普遍的法則として妥当しうる格率にしたがって行為せよ」というものである。それゆえ、まずは自分の主観的な原則にしたがって自分の行為を考察しなければならない。しかし、この〔主観的〕原則がまた客観的にも妥当するかどうかということは、ただ次の点からしか分からない。つまり、自分の理性によって、この原則にしたがえば自分を同時に普遍的立法者としてみなすことができるかどうか吟味し、それによって原則がこうした普遍的な立法の資格を与えられる、という場合だけである。

 こうした法則が、そこから帰結しうることが非常に多様であるということと比べて、単純であるということ、また同様に、命令しておきながらそこにはいかなる動機も明白に伴ってはいないということ、これらは確かに最初は当惑させるものに違いない。しかし、我々の理性の能力にこのように驚嘆しつつも、実践法則が持つ普遍性の資格をある格率に与えるという単なる理念によって、次のことが分かる。選択意志の性質はまさにこうした実践法則(道徳法則)によって明らかになるのであり、思弁理性はア・プリオリな根拠からも何らかの経験によってもそこへは到達できなかったし、もし到達したとしても、実践法則の可能性は理論的には何によっても明らかにはならなかっただろう。他方で、実践法則だけが選択意志のこのような性質、つまり自由を一貫して明らかにするのである。そうだとすれば、この法則が数学における要請と同様に不可知でありながら、にもかかわらず論証上必然的であるということ、しかし同時に実践的認識の全領野が眼前に広がっているということ、これらのことはそれほど当惑を与えるものではなくなるだろう。実践的認識の領野において、理性は自由の理念によって、そして理論哲学における超感性的な理性の他の諸理念〔神、魂の不死〕によって、すべてのもの〔経験的認識〕がまさに自らの前から締め出されていることを気づかざるをえないのである。ある行為が義務の法則と一致しているということが行為の適法性(legalitas)であり、他方、行為の格率が法則と一致しているということは行為の道徳性(moralitas)である。しかし格率は、行為の主観的原理であり、それは主体自らが規則にしたものである(主体がどのように行為したいか)。それに対して、義務の原則は、まさに主体に対して理性が、それゆえ客観的に命じるものである(主体がどのように行為すべきか)。

 【226】したがって倫理学の最高の原則は、「同時に普遍的法則として妥当しうる格率にしたがって行為せよ」というものなのである。普遍的法則の資格を持たないどんな格率も道徳に反している。

 意志から法則が生じ、選択意志から格率が生じる。後者は、人間においては自由な選択意志である。意志は、ただ法則にのみ関係し、自由とも自由でないともいうことはできない。というのも、意志は行為ではなく、行為の格率のための立法(したがって実践理性そのもの)に直接関係し、それゆえまた必然的にいかなる強要も可能ではないからである。つまり、選択意志だけが自由と呼ばれるのである。

 しかし、選択意志の自由といっても――これまで試みられることがあったように――、法則に則って行為するかあるいは法則に反して行為するかのいずれかを選択する能力(無差別の自由libertas indifferentiae) としては、定義できない。現象としての選択意志が経験において、こうした無差別の自由の実例を提供することがたびたびあるとしても、である。というのも、自由(道徳法則を通してはじめて我々に知られることになる)は、我々のうちにある消極的な性質、つまりいかなる感性的な規定根拠によっても行為へと強要されることはないという性質として知られるからである。しかし、叡智的存在者として見れば、つまりただ知性としての人間の能力から見れば、知性が感性的な選択意志に関して強要するということになり、それゆえこうした積極的な性状からすれば、我々は自由を理論的にはまったく証明できない。ただ我々は次のことをよく分かってはいるのである。つまり、感性的存在者としての人間は、経験によれば、単に法則に適合するようにではなく法則に反するようにも選択するという能力を示しているのだが、これによっては叡智的存在者としての人間の自由は定義できない。というのも、現象はいかなる超感性的な客体(ここでは自由な選択意志である)をも理解可能なものにしてくれないからである。また、理性的な主体が自らの(立法する)理性に抵抗するような選択ができるということに、自由があるのではない。経験はこうしたことが生じる(なぜそれが可能なのかということは測りかねるのだが)ということを十分に証明しているとしても、である。〔無差別の自由を擁護する人らは〕一方で(経験)命題を認め、他方ではそれを(自由な選択意志という概念の)説明原理にし、(動物的あるいは奴隷的選択arbitrio bruto s. servoから)区別するメルクマールにもするが、【227】それは前者〔経験命題〕はこのメルクマールが必然的に概念に属しているということは主張していないにもかかわらず、後者にとってはそれが必要になってしまうからである。理性の内的な立法に関係する自由は本来ただ能力であり、この立法から逸脱するという可能性はそのような能力ではない。さて、後者〔理性の立法からの逸脱〕から前者〔自由〕をどのようにすれば説明できるだろうか〔そんなことはできない〕。このような定義は、実践的概念のうえに、さらに経験によって分かるその概念の実行を付け加えてしまっており、概念を誤った光のもとに置くことになる雑種的説明(definitio hybrid)である。

 (道徳実践的)法則とは、定言命法(命令)を含む命題である。法則を通して命令する者(imperans)は立法者(legislator)である。立法者は法則にしたがって拘束を創始する者(autor)だが、必ずしも法則の創始者であるわけではない。後者の場合、その法則は実定的(偶然的)であり、恣意的である。我々自身の理性を通じてア・プリオリに無条件に我々を拘束する法則は、最高の立法者、つまり権利だけを持ち義務を持たない者の意志(したがって神の意志)から生じたものとして表現することができる。しかしこの法則は、自分の意志がすべての人にとって法則となるような道徳的存在者の理念を意味しているにすぎず、その場合でも、この存在者をその意志の創始者として考える必要はない。

 道徳的な意味での帰責(imputatio)は、誰かを、行為(factum)と呼ばれる法則のもとにある行動の創始者(自由原因causa libera)であるとみなすという判断である。判断が、同時にこの行為から法的な帰結を導くなら、法的効力のある帰責(imputatio iudiciaria s. valida)ということになるが、そうでなければ単に判定するだけの帰責(imputatio diiudicatoria)ということになるだろう。法的効力を持って帰責する権能を持つ(自然的ないし精神的 )人格は、裁判官あるいは裁判所(iudex s. forum)と呼ばれる 。

 義務に適っていて、しかも法則にしたがって強制されうること以上のことがなされれば、それは功績がある(meritum)。法則にしたがって強制されうることにだけ適合するようになされたことは、責務(debitum)である 。最後に、責務が求めることより少なくなされたことは、道徳的な過失(demeritum)である。何らかの過失に対する法的な効果は、処罰(poena)である。それに対して、功績のある行為に対する効果は、報酬(praemium)である(この場合に前提とされているのは、法則において約束されている報酬が動機となっているということである) 。【228】振る舞いが責務に適合していても、まったく法的な効果はない。善意の報復(remuneratio s. repensio benefica)は、実際には法的には一切関係がない。

 当然なすべき行為から生じた帰結が良くとも悪くとも――功績のある行為をしなかった場合の帰結と同様に――その帰結は主体には帰せられない(帰責免除の規則modus imputationis tollens)。

 功績のある行為から良い帰結が生じたならば――法に適っていない行為から悪しき帰結が生じた場合と同様に――、その帰結は主体に帰されうる(帰責付加の規則modus imputationis ponens)。

 その行為がどれだけ帰責可能なものか(imputablitas)ということは主観的であり、その際に乗り越えなければならなかった障害の大きさによって評価されなければならない。(感性が受け取った)自然の障害が大きければ大きいほど、また(義務における)道徳的障害が小さければ小さいほど、善行は功績だと評価される。例えば、私がまったく見知らぬ人を相当の犠牲を払って難局から救い出すという場合がそうである。

 これに対して、自然の障害が小さければ小さいほど、また義務の根拠から生じる障害が大きければ大きいほど、それだけいっそう違反は(過失として)〔行為者に〕帰されることになる。したがって、主体がその行為を衝動的になしたのか、あるいは落ち着いて考慮してなしたのかという心の状態によって、帰責の帰結に違いが生じる。