カント『法論』#1(目次)

凡例

 以下は、イマヌエル・カント『道徳の形而上学 第一部 法論の形而上学的基礎』(Immanuel Kant, Metaphysische Anfangsgründe der Rechtslehre. Metaphysik der Sitten 1. Teil, 1797)の不完全な翻訳です。翻訳はアカデミー版カント全集(Kants Gesammelte Schriften, hg. von Königlich Preußische Akademie der Wissenschaften, Berlin, de Gruyter, 1900ff)第6巻により、文中の【 】内に頁数を記しました(web版はこちら)。

 〔 〕は訳者の補足で、原文の( )はそのまま表記しています。ただし、hatena blogでの記載が煩雑になるため、原文の強調は全て省略しています。

 『道徳の形而上学』(1797)は、カントが『道徳の形而上学の基礎づけ』(1785, Grundlegung zur Metaphysik der Sitten)、『実践理性批判』(1788)を通じて確立してきた道徳原理にもとづいて、法(Recht)と徳(Tugend)の2つの部門を論じた著作です*1。『道徳の形而上学』は「第一部 法論の形而上学的基礎」と「第二部 徳論の形而上学的基礎」に分かれており、前者が先に出版され、遅れて一年後に後者が出版されました。このブログでは「法論」のみを、しかも部分的に訳出します。

 タイトルは旧来『人倫の形而上学』とも訳されてきましたが、このブログでは『道徳の形而上学』と約しています。Sitteの訳が問題なのですが、「人倫」はやや古めかしい響きを持つと考えました。Sitteはドイツ語でもともと共同体の慣習を意味する語です。後にヘーゲルは『法の哲学』のなかでSitteとMoralを区別しましたが、(私見または通説によれば)カントはこうした区別を立てていません。そのため、Sitteをわざわざ「人倫」と訳すよりも「道徳」と訳したほうがいいのではないかと思ったのです。ただしSittenlehreは道徳学とするよりも、倫理学としたほうが現在の日本語上、自然であるため、そのように訳しました。

 また、ドイツ語Rechtにはラテン語jus、フランス語droitと同様に、「法」と「権利」どちらの意味もあります。ここで法というのはおおよそ人間の行為規範の総体という意味であり、自然法(Naturrecht)、民法(Zivilrecht)、公法(öffentliches Recht)、教会法(kanonisches Recht)などという風に用いられます。それに対して、こうした法に内包される法則・法律・掟はドイツ語ではGesetz、ラテン語ではlex、フランス語ではloiにあたります。さらにRechtは、形容詞の形(recht)で「正しい」という意味があります。カントは本書でRechtに含まれたこうした意味の重層性を捉えて議論を進めており、翻訳では文脈に応じて、「権利」「法」「正しさ」と訳し分けています。

 

目次

序文

道徳の形而上学への序論(#1, #2, #3

法論の形而上学への序論
 §A–§E
 法論への序論の補足:両義的な権利(Ius aequivocum)
 法論の区分

道徳の形而上学一般の区別
 

第1部 私法:外的な私のもの・あなたのもの一般について

第1編 外的なものを自分のものとしてもつ仕方について
§1-3§4–5§6§7§8–9

第2編 外的なものを取得する仕方について*
 第1章 物権について
 第2章 債権について
 第3章 物件の仕方での人格権について〔家族権について〕
 補章 選択意志の外的対象の観念的取得

第3編 公的法廷の判決を通じた主観的に制約された取得について*

 

第2部 公法
 第1章 国法
 第2章 国際法
 第3章 世界市民法 

付録 法論の形而上学的基礎への解説的注釈*

 (*は訳すつもりのないところ)

*1:ただし、『基礎づけ』・『実践理性批判』と『道徳の形而上学』がどのような関係にあるのか、前者と後者は連続しているのか独立しているのか、という点については論争があります。

カント『法論』#14(私法第1編#5)

第1部 私法:外的な私のもの・あなたのもの一般について
第1編 外的なものを自分のものとしてもつ仕方について

§1
§2 実践理性の法的要請
§3
§4 外的な私のもの・あなたのものの概念の解明
§5 外的な私のもの・あなたのものの概念の定義
§6 外的対象の純粋に法による占有の概念の演繹
§7 外的な私のもの・あなたのものの可能性の原理の、経験の対象への適用
§8 外的なものを自分のものとしてもつということは、ただ公的な立法権のもとでの法的状態、すなわち市民状態でのみ可能である
§9 自然状態では、現実的ではあるが、ただ暫定的な外的な私のもの・あなたのものしか存在しえない 

§8. 外的なものを自分のものとしてもつということは、ただ公的な立法権のもとでの法的状態、すなわち市民状態でのみ可能である

 私が(言葉によってか行為を通じてか)私は外的ななにかを私のものにしようと思うと宣言すれば、他のすべての人が私の選択意志の対象に手を出さないように拘束されていると宣言することになる。こうした拘束は、私のこうした法的な作用がなければ誰にも課せられなかったであろう。しかし、こうした思い上がった宣言においては、同時に、他のすべての人もまた外的な自分のものについて互いに同じ程度に手を出さないよう拘束されていると公言されるのである。というのも、ここで拘束性は外的な法的関係性という普遍的規則に由来しているからである。それゆえ、私が他人の外的なものを侵害しないように拘束されていながら、他方で他のすべての人が私にはそれを保障しない、というようなことはない。【256】私がそのように拘束されているのなら、他者も私のものについて同様の原理に従って振る舞うことになるだろう。こうした保障には特別な法的作用は必要ではなく、それはすでに外的で法的な義務付けの概念のなかに、その普遍性のゆえに含まれている、それゆえまた普遍的規則に由来する拘束性の互酬性のなかに含まれているものである。――外的な、それゆえ偶然的な占有に際しての一方的な意志は、すべての人に対する強制法則となりえない。そうであるならば、普遍的法則に従って自由が毀損されてしまうからである。したがって、ただ他のすべての人を拘束する意志、それゆえ集団の普遍的(共通の)かつ権力を持った意志だけが、すべての人に〔外的なものを侵害しないよう〕保障することができる意志である。――ところで、権力を備えた普遍的かつ外的(すなわち公的)な立法のもとでの状態は市民状態である。したがって、市民状態においてのみ、外的な私のもの・あなたのものは存在することができる。

結論 外的な対象を自分のものとしてもつということが法的に可能でなければならないなら、主体には、こうした客体に関して私のものとあなたのものとの争いが生じることになる他のすべての人を強制して、自分とともに市民的体制に入るようにするということが、許容されている。

 

§9. 自然状態では、現実的ではあるが、ただ暫定的な外的な私のもの・あなたのものしか存在しえない

 市民的体制の状態における自然権(すなわち、市民的体制に関してア・プリオリな原理から導出されうるような権利)は、市民的体制の実定法を通じて毀損されることはないし、「私の選択意志の対象を私のものにすることを不可能にするような格率にしたがって行為する人は私を侵害する」という法的原理は効力を保ったままである。というのも、ただ市民的体制を通じてのみ各人のものが各人に保障されることになるが、しかし市民的体制を通じて各人のものが取り決められたり規定されたりされるということは本来ないからである。したがって、どのように保障されるにしても、すでに(保障されることになる)誰かのものが前提とされている。それゆえ、市民的体制以前に(あるいは市民的体制を度外視しても)外的な私のもの・あなたのものは可能だとみなさなければならないし、同時に、我々が何らかの仕方で交際することになるすべての人を強要して、我々とともに自分のものが保障されうる体制に入るようにするという権利がある。――【257】共通意志の法則にしか基礎を持ちえず、それゆえ共通意志の可能性に合致したこうした体制を期待しまたそれに備えるなかでなされる占有は、暫定的に法的な占有である。それに対して、現実のこうした体制における占有は確定的な占有となるだろう。この体制に入る以前には、主体がその心構えができているなら、これを快く思わず、その主体の一時的な占有を妨害しようとする人に対して対立するのは正しい。というのも、その主体以外の他のすべての人の意志が、主体に対してある種の占有を差し控えるように拘束性を課すと考えるにしても、それはただ一方的であるにすぎず、それゆえ(ただ普遍的意志にのみ見いだされるような)法則的な効力をもって市民的体制の導入と設立に反対することはできないからである。これは、その主体の意志が法則的な効力をもってそれに合意するよう主張できないのと同様である。この場合、他のすべての人の意志はその主体一人の意志を上回っているのだ。――簡潔に言えば、自然状態で外的なものを自分のものとしてもつ仕方は物理的占有であり、物理的占有には、すべての人の意志と統一することを通じてその占有を公法の立法のもとで法的な占有へと変えるための、法的推定があるのであって、こうした市民的体制への期待において相対的に法的な占有としてみなされる。

 「占有する人は幸いである(beati possidentes)」という公式にしたがって、経験的な占有状態から由来するこうした権利の優越性は、占有する人が正しい人であると推定されるがために、何かを適法的な仕方で占有していると証明するよう強要されることがない、という意味ではない。その意味はむしろこうである。すなわち、実践理性の要請にしたがって選択意志の外的対象を自分のものとしてもつ能力が各人に認められるがゆえに、どのように対象が所持されようとも、この状態の適法性はそれに先立つ意志の作用を通じて実践理性の要請に基づいており、したがって、同じ対象が他の人に先に占有されているのではないなら、暫定的に、外的な自由の法則にしたがって、公法による自由の状態に入ることを望まないすべての人に対して、この対象をどんな形であれ不当に使用することを妨げることが正当化される。これによって、理性の要請に適った仕方で、そうでなければ実践的に無にされてしまうであろう物件を自分で使用することができるようになる。

カント『法論』#13(私法第1編#4)

第1部 私法:外的な私のもの・あなたのもの一般について
第1編 外的なものを自分のものとしてもつ仕方について

§1
§2 実践理性の法的要請
§3
§4 外的な私のもの・あなたのものの概念の解明
§5 外的な私のもの・あなたのものの概念の定義
§6 外的対象の純粋に法による占有の概念の演繹
§7 外的な私のもの・あなたのものの可能性の原理の、経験の対象への適用

§7. 外的な私のもの・あなたのものの可能性の原理の、経験の対象への適用

 純粋に法による占有の概念は、決して経験的な(空間と時間の諸条件に依存する)概念ではないが、にもかかわらずそれは【253】実践的実在性を有している。つまりこの概念は空間と時間の諸条件によってしか認識されない経験の対象に適用することができるのである。可能な外的な私のもの・あなたのものに関する法概念の手続きは以下のとおりである。理性の中にだけ存在する法概念は、決して直接、経験の対象や経験的占有の概念に適用することはできず、まずは占有一般の純粋悟性概念へと適用されなければならない。そうすれば、占有の経験的表象である所持(detentio)の代わりに、いかなる空間・時間の条件をも捨象した「もつHaben」という概念を考えることになるし、また、対象が私の支配のもとにある(in potestate mea positum esse)ということだけを考えることになる。この場合、外的なものという表現は、私が今いるところとは別の場所に存在するということを意味するのでもなく、また〔契約の際に相手方から〕申込みがあったのとは別の時間に私の意志決定がなされ、その申込みを承諾するということを意味するのでもなく、むしろただ私とは区別された対象だけを意味することになる。今や、実践理性は法の法則を通じて、次のことを意志する。自由の法則にしたがって選択意志を規定するということに関わる以上、私は、感性的条件にしたがってではなくむしろそれを捨象して、私のもの・あなたのものが対象へと適用されていると考え、またその占有を考える。このことは、悟性概念を法概念のもとへと包摂することで可能になる。したがって、私は今やこう言うだろう。私はある畑を占有する、それが私のいるところとはまったく別のところにあるとしても、あたかもそこに私が実際にいるかのようにして占有する、と。というのもここで重要なのは、この畑を支配している(これは空間的条件から独立した占有の悟性概念である)という限りにおいて、私がその対象に対して持つ知性的な関係だけだからである。そして、この対象を好きなように使用するように規定された私の意志が外的な自由の法則と衝突するということはないのだから、この対象は私のものである。私の選択意志の対象が現象において占有(所持)されているかどうかということを度外視し、実践理性は、占有が悟性概念にしたがって、すなわち経験的概念ではなく、ア・プリオリな占有の条件を含みうる概念にしたがって考えられることを意志しているということ、まさにここにこうした占有(叡智的占有possesio noumenon)の概念が普遍妥当的な立法として効力を持つことの根拠がある。というのも、普遍妥当的な立法は「この外的対象は私のものである」という表現に含まれているからである。なんとなれば、他のすべての人は、そうでなければ〔こうした宣言がなければ〕ありえなかったであろう拘束性を課せられて、この対象の使用を控えなければならなくなるからだ。

 したがって、私の外にあるものを私のものとして持つ仕方は、【254】純粋に法によって主体の意志とその対象を結合するということであり、それは空間と時間において主体と対象が持つ関係からは独立しており、叡智的占有の概念にしたがったものである。――土地の一画は、それを私が自分の身体によって占めているから私のものとなるのではない(というのも、ここでは私の外的な自由だけが問題であり、すなわち私の外的自由の占有そのものは私の外にあるものではなく、したがって内的な権利にすぎないからである)。むしろ、それが私のものとなるのは、私がその一画から離れて別の場所に赴いていたとしても、私がその一画をそれでも占有していると言える場合だけであり、この場合には私の外的な権利だけが問題になっているのである。しかし、この一画を私のものとして持つための条件として、私の人格によってこの一画が持続的に占有されていなければならないとする人は、次のいずれかを主張していることにならざるをえない。すなわち、外的なものを自分のものとしてもつということはまったく不可能であると主張するか(これは2節の要請に反している)、あるいは、これが可能となるためには私は二つの場所に同時に存在しなければならないと要求することになるのである。しかし、後者は私が一つの場所に同時に存在しまた存在しないべきだと言っているに等しく、矛盾している。

 こうしたことは、私が約束を承諾するという状況にも適用できる。実際、約束をした人があるときこの物件はあなたのものですと言い、しかし後になって同じ物件について、これをあなたのものにはしたくないと今決めたと言うとしても、これによって約束のものについて私の財産が破棄されるということにはならない。というのもこうした知性的関係にとって重要なのは、あたかも約束をした人が自身の意志についての二つの言明のあいだに時間差がなかったかのように、この物件はあなたのものであると言うと同時にこの物件はあなたのものではないと言うような事情だからである。これはそれ自体で矛盾している。

 同様のことはまた、主体のもつものに属している(妻や子、奴隷)ような、人格を法によって占有するという概念にも妥当する。つまり、こうした家共同体とそのすべての成員の状態を相互に占有しているということは、互いに別々の場所に離れているという権能によっては、破棄されない。なぜなら、法的関係性が彼らを結びつけているものであり、ここでは外的な私のもの・あなたのものは前述の事例とまさに同様に所持抜きの純粋な理性占有の可能性の前提にまったく依拠しているからである。

 外的な私のもの・あなたのものの概念に関する法的・実践的理性批判がこうしたことを行わなければならないのは、そもそも、占有の可能性をめぐる二つの命題のアンチノミーの所以である。【255】すなわち、テーゼとアンチテーゼの両方が相互に対立する二つの条件がそれぞれ妥当であることを要求し、不可避の弁証論に陥ることによって、理性は(法に関する)実践的な理性使用においても、現象としての占有と悟性のみによって考えられる占有との区別をつけるよう迫られるのである。

定立:私がそれを占有していないとしても、外的なものを私のものとしてもつことは可能である。

反定立:私がそれを占有していないのなら、外的なものを私のものとしてもつことは不可能である。

解決:前者は占有を経験的占有(possessio phaenomenon)、後者は叡智的占有(possessio noumenon)の意味に解するなら、二つの命題は正しい。――しかし叡智的占有の可能性、すなわち外的な私のもの・あなたのものの可能性は理解しがたく、実践理性の要請から帰結するのでなければならない。ここでさらに特に注目に値することがある。実践理性は、直観、しかもア・プリオリな直観さえ必要とすることなく、自由の法則によって経験的条件を捨象することが正当化されているということのみを理由にして、自らを拡張し、ア・プリオリな法の総合命題を定立することができるのであり、この証明は(直後で示されるが)そのあとで、実践的観点から分析的に導入されうるのだ。

カント『法論』#12(私法第1編#3)

第1部 私法:外的な私のもの・あなたのもの一般について
第1編 外的なものを自分のものとしてもつ仕方について

§1
§2 実践理性の法的要請
§3
§4 外的な私のもの・あなたのものの概念の解明
§5 外的な私のもの・あなたのものの概念の定義
§6 外的対象の純粋に法による占有の概念の演繹 

§6. 外的対象の純粋に法による占有(叡智的占有possessio noumenon)の概念の演繹

 【249】外的な私のもの・あなたのものはいかにして可能か、という問いは次のものに還元される。純粋に法による(叡智的)な占有ein bloß rechtlicher (intelligibler) Besitzはいかにして可能か。さらにこれは次に還元される。ア・プリオリな法の総合命題はいかにして可能か。

 あらゆる法の命題はア・プリオリな命題であるが、それは法の命題が理性法則(理性の命法dictamina rationalis)であるからである。経験的占有に関するア・プリオリな法の命題は【250】分析的である。というのも、それはア・プリオリな法の命題から矛盾律にしたがって帰結する以上のものを言明しないからである。つまり、私がある物件を所持している(つまり私と物件が物理的に結びついている)場合、私の同意に反してその物件に働きかけようとする(例えば私の手からりんごを奪う)人は、私の内的なもの(私の自由)に働きかけてそれを削減することになり、それゆえにこうした行為の格率に関して、法の公理Axiomとまさに矛盾することになってしまう。それゆえ、経験的で適法的な占有の命題は、主体の人格に関して人格の権利を超え出るところはない。

 これに対して、空間と時間における経験的占有の条件の一切を捨象した、私の外にある物件の占有の可能性についての命題(つまり叡智的占有の可能性の前提)は、こうした〔時間と空間という〕制約的な条件を超え出ている。そしてこの命題は、所持していなくても対象を占有するということを、外的な私のもの・あなたのものの概念にとって必然的であるものとして言明するのだから、この命題は総合的である。そこで理性の課題となるのは、こうした経験的占有の概念を超え出て自らを拡張するア・プリオリな命題がいかにして可能かを示すこととなる。*1

 すなわち、ア・プリオリな理論的原則においてなら、【252】(純粋理性批判の帰結として)所与の概念にはア・プリオリな直観が配されなければならない、つまり対象の占有の概念に何がしかが付け加えられなければならない。しかし、ここでの実践的原則においては、順番は逆である。経験的占有を基礎づける直観のいっさいの条件が取り去られ(度外視され)なければ、経験的占有の概念を超えて占有の概念を拡張することはできないし、次のように言うこともできない。すなわち、どのようなものであれ、それを占有していないとしても私がそれを支配しているなら(そしてまたその限りで)、選択意志の外的対象は法的な私のものとみなすことができる。

 こうした占有の可能性、すなわち非経験的な占有の概念の演繹は、実践理性の法的要請にもとづいている。実践理性の法的要請とはすなわち、「(使用可能な)外的なものが誰かのものとなりうるように、他者に対して行為するということは、法義務である」というものであった。同時に、非経験的な占有の概念の演繹は、外的なものの概念の解明とも結びついている。外的なものの概念は、外的な誰かのものを単に非物理的な占有に基礎づけるものだからである。しかし、非物理的な占有の可能性はそれ自体では決して証明されないし、理解することもできない(というのもまさに、理性概念には対応する直観を与えることができないからである)ものであり、むしろ想定された要請から直接帰結するものである。というのも、例の法の法則に従って行為することが必然的であるのならば、(純粋に法による占有の)叡智的な条件もまた可能でなければならないからである。――これもまた当然のことだが、外的な私のもの・あなたのものの理論的原理は叡智界においては失われているし、拡張的な認識をもたらすこともない。というのも、この理論的原理が依拠している自由概念は、その可能性を理論的に演繹することはできないものであり、理性の事実として、ただ理性の実践法則から帰結されうることだからである。

*1:次の箇所は従来より、印刷所の手違いでこの箇所に不適切に挿入されたのではないかと考えられてきた。実際、次の箇所は第2章の主題である物権の取得について述べられており、この節のこの箇所に挿入されるなら、かなり不自然である。

 「例えば、こうした仕方で、ある土地の区画を占有するということは私的な選択意志の働きであるが、にもかかわらずそれは自分勝手なものではない。この占有者が依拠しているのは、大地の生得的共同占有Gemeinbesitzとこの共同占有にア・プリオリに対応する普遍的な意志であり、この普遍的意志が大地の一画を私的に占有することを許しているのだ(というのも、そうでなければ誰のものでもない物件は、それ自体で、また法則にしたがって、無主物となってしまうだろうからである)。そしてこの占有者は最初にその区画を占有したことによって根源的にその区画された土地を取得するが、その際この占有者は、この区画を私的に使用することを妨げようとする他のすべての人と、正当に(iure)対立することになる。ただし、占有者は自然状態では権利によって(de iure)他の人と対立することになるのではないが、なんとなればそれはここにはいまだ公法は存在しないからである。

 ある土地が自由だ、すなわち誰の使用にも開かれているとみなされるかそのように説明されることがあるとしても、しかし、物件すなわちこの土地に対して誰も占有することができないという関係にあるのだから、この土地は自然によって根源的に、すなわちあらゆる法的作用以前に自由である、というふうに言うことはできない。土地がこのように自由であるとすれば、誰もそれを利用してはならないという禁止を意味してしまうだろうからである。こうした禁止のためにはこの土地の共同占有が不可欠であり、それは契約なしにはありえない。しかし、契約を通してのみ自由でありうるような土地は、実際には、互いにこの土地の使用を差し控え停止する(よう互いに拘束しあっている)すべての人によって占有されていなければならない。【251】

 土地やそのうえにある物件をこのように根源的に共有しているということ(土地の根源的共有communio fundi originaria)は、客観的(法的・実践的)な実在性を持った一つの理念であり、間違いなく原始的な共有(communio primaeva)から区別されなければならない。後者は、創作である。というのも後者は、設立された共有であり契約に由来しなければならないからである。この契約を通して、すべての人は私的占有を断念し、各人は自らの占有を他者の占有と統合して自分の占有を共同占有に変換することになったということ、これは歴史が私たちに証明しなければならないものである。しかし、こうした手続きを根源的な占有確保Besitznehmungとしてみなし、すべての人は自分自身の占有をこの手続に基礎づけられうるし基礎づけなければならないとするのならば、矛盾である。

 占有Besitz(posessio)と占拠Sitz (sedes)は区別されるし、また将来取得するための土地の占有確保と定住Niederlassung、Ansiedelung(incolatus)とは区別される。後者はある場所を持続的に私的に占有することであり、その場所に主体が居合わせているということに依存する。二次的に法的な作用としての定住は占有確保は、占有確保に引き続きなされるかあるいはそれもせずに済ましてよいが、ここでは話題にしない。というのも、定住は決して根源的な占有ではなく、他の人の同意から導出される占有だからである。

 土地の単なる物理的占有(所持)はすでに物件における一つの権利であるが、もちろんその土地を私のものとみなすにはなお十分ではない。土地の物理的占有は、(他者が認める限りで)最初の占有として、他者との関係で言えば、外的な自由の法則と一致し、同時に根源的共同占有に含まれているものである。根源的共同占有には、私的占有の可能性の根拠がア・プリオリに含まれている。それゆえ、土地の最初の所持者がその土地を使用することを妨げるということは、侵害である。したがって最初の占有確保にはそれ自体で権原Rechtsgrund(占有の権原titulus possesionis)があることになるが、この権現は根源的に共有されている占有である。そして、「占有しているものは幸いである(beati possidentes)、誰もその占有を記録するよう拘束されてはいないのだから」という命題は自然権の原則であり、この原則によって最初の占有確保が取得の法的根拠とされるわけである。この根拠に基づいてどのような人も最初の占有者となるのである。」

カント『法論』#11(私法第1編#2)

第1部 私法:外的な私のもの・あなたのもの一般について
第1編 外的なものを自分のものとしてもつ仕方について

第1部 私法:外的な私のもの・あなたのもの一般について

第1編 外的なものを自分のものとしてもつ仕方について
§1
§2 実践理性の法的要請
§3
§4 外的な私のもの・あなたのものの概念の解明
§5 外的な私のもの・あなたのものの概念の定義 

§4. 外的な私のもの・あなたのものの概念の解明

 【247】私の選択意志の外的な対象は、次の三つしかない。1. 私の外にある(有体)物、2.特定の行為への他者の選択意志(給付praestatio)、3. 私との関係における他者の状態。これらは、自由の法則にしたがった私と外的対象のあいだの実体・原因性・相互性のカテゴリーによるものである。

(a)

 私が空間における対象(有体物)を私のものであると呼ぶためには必ず、その物件を物理的に占有していないにもかかわらず、私はそれとは異なる現実的な仕方で(すなわち物理的にではなく)それを占有していると主張することができなくてはならない。したがって、私が一つの林檎を私のものだというのは、それを私が手中に収めている(物理的に占有している)からではなくて、私が林檎を手放してそれをどこにやろうとも、私はそれを占有していると言うことができる場合だけである。同様に、私は自分が立っている土地について、私がここに立っているのだからこれは私のものだということはできないだろう。むしろ、この場所を私が去ったとしても、この土地は相変わらず私に占有されていると主張することができる場合にだけ、この土地は私のものだということができるのである。【248】というのも、前者の(経験的占有の)場合、私の手からその林檎を奪い取るか、あるいは居所から私を連れ去ってしまおうとする人は、たしかに内的な私のもの(自由)に関して私を侵害しているが、しかし、もし対象を所持していなくてもその対象を占有していると主張できないとすれば、外的な私のものに関して私を侵害したことにはならないのである。もしそうだとすると、私はこの対象(リンゴや居所)を私のものだということはできなくなってしまうだろう。

(b)

 他者の選択意志を通じて何かを給付してもらう場合、この給付は他者の約束と同時に(対象に関して締結された契約pactum re initum)私に占有されることになるとしか言えないのであれば、その給付を私のものだと呼ぶことはできない。そうあるためには、まだ給付の期限〔時間Zeit〕がきていないとしても、他者の選択意志を占有している(他者の選択意志を行為の給付へと規定する)と主張できる場合だけである。したがって、こうした状況の約束(能動的拘束obligatio activa)は私の財産に属しており、私はそれを私のものに含めることができる。しかし、それは単に私が約束されたものを(最初の場合のように)すでに占有している場合だけではなく、私が約束されたものをいまだに占有していない場合もそうなのである。したがって私は、時間の条件に制限された占有、すなわち経験的な占有に依存しておらず、にもかかわらずこの対象を占有していると考えることができなくてはならない。

(c)

 私は妻や子供、奉公人、そして一般に他の人格を私のものと呼ぶことができるが、それは私が彼らを私の家に属している人々として今指揮しているから、あるいは彼らを囲いにいれ、私の権力のもとで彼らを占有しているからではない。それはむしろ、彼らが〔私の〕強要から逃れており、したがって私は彼らを(経験的に)占有しているのではないとしても、彼らがいつかどこかに存在している限り、それでも私は彼らを私の意志だけを通じて占有している、すなわち純粋に法によって占有していると言える場合である。したがって、このことが主張できる場合に、その限りでのみ、彼らは私の財産に属している。

 

§5. 外的な私のもの・あなたのものの概念の定義

 名目的説明 、すなわち客体を他のすべての客体から区別するのには十分であり、また完全・正確な概念の解明から生じる説明は、こうなるだろう。外的な私のものは、私の外にあって、それを私が好きなように使用することを【249】妨げるなら、私にとって侵害(万人の自由と普遍的法則にしたがって両立しうる私の自由の毀損)となるようなものである。――しかし、この概念の演繹(対象の可能性の認識)にもまた十分である、この概念の実質的説明はこうなるだろう。外的な私のものは、私がそれを占有していないとしても(その対象を所持しているのではないとしても)、私がそれを使用することを妨害すれば、私にとって侵害となるようなものである。――外的対象を私のものだと呼ぶためには、私はそれを何らかの仕方で占有していなければならない。というのも、そうでなければ、私の意志に反してこの対象に働きかけようとする人は、同時に私にも働きかけるということにはならないし、それゆえ私を侵害したということにもならない。したがって、外的な私のもの・あなたのものが存在するとすれば、4節の帰結より、叡智的占有(possessio noumenon)は可能であるとして前提されなければならない。そして、経験的占有(所持)はただ現象における占有(現象的占有possessio phaenomenon)であることになる。ところが、私が占有する対象はこの場合、超越論的分析論のときと同様、それ自体現象と見られるのではなくて、物件自体Sache an sichとして見られる。というのも、超越論的分析論において、理性は物の自然の理論的認識に従事していたが、ここで理性にできることといえば、自由の法則にしたがって選択意志を実践的に規定することであり、それは対象が感官を通じて認識されうるものであろうが純粋悟性を通じてのみ認識されうるものであろうが変わりはない。そして法は、自由の法則のもとでの選択意志というこうした純粋実践理性概念なのである。

 それゆえまさに、あれこれの対象への権利を占有しているというのではなくて、むしろあれこれの対象を純粋に法によって占有しているという方が理に適っているだろう。というのも、権利というのはすでに対象を叡智的に占有することであるからで、占有を占有するというとすれば無意味な表現になるだろう。

カント『法論』#10(私法第1編#1)

第1部 私法:外的な私のもの・あなたのもの一般について
第1編 外的なものを自分のものとしてもつ仕方について

第1部 私法:外的な私のもの・あなたのもの一般について

第1編 外的なものを自分のものとしてもつ仕方について
§1
§2 実践理性の法的要請
§3 

§1.

 【245】法的な私のもの(meum iuris)は、他者が私の同意なくそれを使用するとすれば、私が侵害されるだろう、という仕方で私と結びついたものである。使用というものが一般に可能であるための主観的な条件は、占有Besitzである。

 ところで、外的なものが私のものとなる場合、必ず、それを私が占有しているのではないにもかかわらず、ある物件を他者が使用することによって、同様に私が侵害されるということがありうると想定することができなくてはならない。――したがって、占有の概念が異なる意味のうちのいずれか、すなわち感性的占有か叡智的占有かのいずれかの意味に解され、一方は対象の物理的占有、他方は対象の純粋に法によるbloß-rechtlich占有として解されうるのでなければ、外的なものを自分のものとしてもつということは自己矛盾することになるだろう。

 ところで、「ある対象が私の外にあるein Gegenstand ist außer mir」という表現は、次のいずれかのことを意味しうる。すなわち、それはただ私(主体)から区別される対象であるということか、それに加えて空間あるいは時間的に別のところ(positus)に存在する対象であるということかのいずれかである。外的なものを前者の意味に解する場合にだけ、占有を理性占有として思考することができる。他方、後者の意味においては、経験的な占有になってしまわざるをえないだろう。――【246】叡智的占有(そういうものが可能であるとして)は所持Inhabung(detentio)を伴わない占有である。

 

§2. 実践理性の法的要請

 どのようなものであれ私の選択意志の外的対象を私のものとしてもつことは、可能である。すなわち、何らかの格率があり、それが法則化され、その格率にしたがうと、選択意志の対象それ自体が(客観的に)無主物(res nullius)となってしまわざるをえないのだとすれば、そのような格率は法に反している 。

 というのも、私が物理的に使用することが可能であるものが、私の選択意志の外的な対象であるからである。にもかかわらず、もしそれを使用することが法的にまったく不可能であるとされるのであれば 、すなわち、それを使用することが誰の自由とも普遍的法則にしたがって両立しえない(不正である)とされるのであれば、選択意志の対象に関して、自由は自由な選択意志の使用を自らから剥ぎとってしまうことになってしまうだろう。というのも、自由によって使用可能な対象があらゆる使用可能性の外部に置かれてしまう、すなわち使用可能な対象が実践的観点から無きものにされ、その結果無主物になってしまうからである。〔この場合の私の〕選択意志は形式的には、その物件を使用するにあたって、すべての人の外的な自由と普遍的法則にしたがって両立しているにもかかわらず、である。――純粋実践理性は選択意志の使用の形式的な法則にしかもとづいておらず、それゆえ選択意志の実質、すなわちそれが選択意志の対象であるという以外の客体の性状を捨象するので、純粋実践理性はこうした選択意志の対象について、その使用を絶対的に禁止することはありえない。もしそうだとすれば、外的自由が自己矛盾をきたしてしまうことになるからである。――ところで、私がある対象を好きなように使用する物理的能力を有しており、それを使用することが可能である(potentia)ものが、私の選択意志の対象であった。これからさらに区別されなければならないのは、この対象を私が支配して(私の支配権に服させてin potestatem meam redactum)いるということであり、これは単に能力だけでなく、選択意志の作用もまた前提とされる。しかし、何かを単に私の選択意志の対象として考えるだけなら、私はその対象を使用することが可能であるということが意識されているだけで十分である。――したがって、どのようなものであれ私の選択意志の対象を客観的に可能な私のもの・あなたのものとしてみなし、またそう扱うことは、実践理性のア・プリオリな前提である。【247】

 この要請は実践理性の許容法則(lex permissiva)と呼ばれうるものであり、それは権利一般の単なる概念からは引き出しえない権能を我々に与えてくれる。それはすなわち、我々の選択意志のなんらかの対象を、我々がそれを最初に占有したからという理由で、使用することを差し控えるよう他のすべての人に拘束性を課す権能であり、そうした拘束性はそうでなければ〔許容法則がなければ〕課せられることはなかったであろう。理性はこのことが原則として、しかも実践理性として妥当することを望むのだが、実践理性はこの要請を通してア・プリオリに拡張されるのである。

 

§3.

 ある物件を自分のものとしてもつことを主張しようとする人は、対象を占有していなければならない。というのも、その人が対象を占有していなければ、他者がその人の同意なくそれを使用したとしてもその人が侵害されたことにはならないからである。なぜなら、その人の外にあるもので、法的にその人とまったく結合していないような対象に他者が働きかけたとしても、その人(主体)自身に働きかけたことにはならないだろうし、不正を為すということにもならないだろうからである。

カント『法論』#9(道徳の形而上学一般の区別)

序文

道徳の形而上学への序論

法論の形而上学への序論
 §A 法論とは何か
 §B 法とは何か
 §C 法の普遍的原理
 §D 権利は強制する権能と結びついている
 §E 厳格法は、普遍的法則にしたがった…
 法論への序論の補足:両義的な権利(Ius aequivocum)
 法論の区分

道徳の形而上学一般の区別
 

第1部 私法:外的な私のもの・あなたのもの一般について

第2部 公法

 

道徳の形而上学一般の区分

Ⅰ. あらゆる義務は法義務(officia iuris)、つまり外的立法が可能な義務か、外的立法が可能ではない徳義務(officia virtus s. ethica)かのいずれかである。しかし後者が外的立法を受け付けることができないのは、それが同時に義務である目的(あるいはそれを目的にすることが義務となる目的)に関わるからである。ところで、目的を設定するということは外的な立法によっては可能ではない(というのも、それは心の内的な作用だからだ)。ただし、主体がその行為を自らの目的としなくても、それを達成するような外的行為が命じられていることはある。

 ところで、なぜ倫理学(道徳)は通常(特にキケロによって)義務論と呼ばれ、権利論と呼ばれないのか。一方は他方に関係しているというのに、それはなぜなのか。その理由はこうである。我々は(あらゆる道徳法則が、それゆえまたあらゆる権利と義務とが由来するところの)自分自身の自由を、ただ道徳的命法を通してのみ認識する 。道徳的命法は義務を命じる命題であり、そこからそのあとで他者を義務付ける能力が、つまり権利の概念が展開されうるのである。

Ⅱ. 義務論において人間は、まったく超感性的な自由の能力という性質に関して、したがって単にその人間性のみに関して、自然的な規定から独立した人格性(叡智的人間homo noumenon)として表象されうるし表象されなければならない。これは同じ人間を自然的な規定を伴う主体として、つまり人間(現象的人間homo phaenomenon)として表象するのとは区別される。それゆえ、権利と目的はこの二重の性質において再び義務と関連付けられ、次のような区分が与えられることになる。【240】

 

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【241】
Ⅲ. 主体に関して義務に対する権利の関係(許されたものか許されていないものか)が考えられるが、諸主体は様々な関係性を取りうるので、この観点から〔道徳の形而上学〕を区分することもできるだろう。

主体に関する、義務づけられる者と義務づける者の関係による区分

1. 権利も義務も持たない存在者に対する人間の法的関係。

ーない。なぜなら、この存在者は我々を拘束することもありえないし、我々がこの存在者によって拘束されることもありえない、理性を欠いた存在者だからである。

2. 権利も義務も持つ存在者に対する人間の法的関係。

ーある。なぜなら、これは人間と人間の関係性だからである。

3. 義務だけを持ち権利を持たない存在者に対する人間の法的関係。

ーない。なぜなら、それがあるとすれば、人格性を持たない人間になってしまうからである(農奴、奴隷)。

4. 権利だけを持ち義務を持たない存在者(神)に対する人間の法的関係。

ーない。つまり、それは可能な経験の対象ではないため、単なる哲学には存在しない。

 

 結局、2番目のところにしか、権利と義務の実在的な関係は存在しない。4番目のところに見出されない理由は、こうである。〔4番目のところに実在的な関係が見いだされるなら〕それは超越的な義務、つまり、外的な義務付けの主体がそれと対応するように与えられることのない義務になってしまうだろう。それゆえ4番目の権利と義務の関係は、理論的観点からすれば、単に観念的である。すなわちそれは思考対象に対する関係であって、それはしかし我々が自らに全く空虚な概念を通してもたらしたものではなく、自分自身に関して、また内的な倫理性の格率に関して、それゆえ実践的な内的観点からすれば、実りの多い概念を通してもたらしたものである。実際、我々のまったく内在的な(実行可能な)義務はこの単に思考されただけの関係性にのみ存するのである。

 

義務一般の体系としての道徳の区分

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その他、学問的な倫理学の質料だけでなく建築術としての形式を含む区分のすべて。形而上学的定礎はこのために普遍的な諸原理をあますところなく探しだした。

 

【242】*1

 自然法の上のような区分は(これまでなされたのとは違って)、自然法と社会法に区分されるのではなく、自然法と市民法に区分されなければならない。第一は私法、第二は公法と呼ばれる。というのも、自然状態に対置されるのは社会状態ではなく、市民状態だからである。自然状態においても社会は十二分に存在しうるが、(公的な法律によって私のものとあなたのものを保障する)市民状態だけは存在しない。それゆえ、〔公的な法律として周知される必要のない〕前者の法は私法と呼ばれる。

*1:以下も明らかに「道徳の形而上学一般の区分」のところに挿入されるのは奇妙であり、本来は「法論の区分」のところに付されるべきであろうと考えられる