閉じられた国家とその敵
2-14
入試監督最終日。みんなフラフラ。
2-15
相変わらずフィヒテ読んでる。ブロッコリーやら菜の花などを茹でた。母親からバレンタインが送られてくる。この前まで泊まりに来てたrからもバレンタインが送られてくる。ベトナムのチョコ。甘いものがいっぱいある。危険。
2-16
大学院入試の監督。ちゅかれた。フィヒテ読んでたら息詰まりそうになった。あとは期末試験の追試監督が残っている。
2-17
明日から北海道大学にお呼ばれして研究報告をするのだが、フィヒテ『閉鎖商業国家』をカントの『永遠平和のために』のパロディとして読むという感じのことをやろうと思っていて、ここ一週間くらいフィヒテを頑張って読んでいたのだが、今から見れば(少なくとも私には)ディストピア感のある閉鎖商業国家も、フィヒテがユートピア的なものとして描いていて、それはそれなりに興味深くはあるのだが、なにせ自然的国境まで領土拡張して自給自足できなきゃ国家は閉鎖できないというあたり、やっぱ無理ってなる。そこだけ見たら、単にフランス革命派のイデオローグでしかないような気もする。おそらくフィヒテはスミスをガルヴェ訳で読んでいて、結構経済について考えているので、そのへんの継受関係も調べれば面白いだろう。ある意味で、フィヒテは市場の秩序を一切信頼しようとしない、ということはその背景にある自然神学的秩序観に一切頼らないということである。カントの『永遠平和』が1795年で、『閉鎖商業国家』が1800年なので、5年の間にかなり政治的言語が変わってしまったという印象を受ける。これはフィヒテだけのものなのかどうなのかはよく見てみないといけないけれども。「事行Tathandlung」という謎めいた発想を経由しなくて読めるのでおすすめですが、おそらく人類で今『閉鎖商業国家』を読んでいるのは俺だけなのではないかというよくわからない使命感をもって読んだ。