カント『法論』#12(私法第1編#3)

第1部 私法:外的な私のもの・あなたのもの一般について
第1編 外的なものを自分のものとしてもつ仕方について

§1
§2 実践理性の法的要請
§3
§4 外的な私のもの・あなたのものの概念の解明
§5 外的な私のもの・あなたのものの概念の定義
§6 外的対象の純粋に法による占有の概念の演繹 

§6. 外的対象の純粋に法による占有(叡智的占有possessio noumenon)の概念の演繹

 【249】外的な私のもの・あなたのものはいかにして可能か、という問いは次のものに還元される。純粋に法による(叡智的)な占有ein bloß rechtlicher (intelligibler) Besitzはいかにして可能か。さらにこれは次に還元される。ア・プリオリな法の総合命題はいかにして可能か。

 あらゆる法の命題はア・プリオリな命題であるが、それは法の命題が理性法則(理性の命法dictamina rationalis)であるからである。経験的占有に関するア・プリオリな法の命題は【250】分析的である。というのも、それはア・プリオリな法の命題から矛盾律にしたがって帰結する以上のものを言明しないからである。つまり、私がある物件を所持している(つまり私と物件が物理的に結びついている)場合、私の同意に反してその物件に働きかけようとする(例えば私の手からりんごを奪う)人は、私の内的なもの(私の自由)に働きかけてそれを削減することになり、それゆえにこうした行為の格率に関して、法の公理Axiomとまさに矛盾することになってしまう。それゆえ、経験的で適法的な占有の命題は、主体の人格に関して人格の権利を超え出るところはない。

 これに対して、空間と時間における経験的占有の条件の一切を捨象した、私の外にある物件の占有の可能性についての命題(つまり叡智的占有の可能性の前提)は、こうした〔時間と空間という〕制約的な条件を超え出ている。そしてこの命題は、所持していなくても対象を占有するということを、外的な私のもの・あなたのものの概念にとって必然的であるものとして言明するのだから、この命題は総合的である。そこで理性の課題となるのは、こうした経験的占有の概念を超え出て自らを拡張するア・プリオリな命題がいかにして可能かを示すこととなる。*1

 すなわち、ア・プリオリな理論的原則においてなら、【252】(純粋理性批判の帰結として)所与の概念にはア・プリオリな直観が配されなければならない、つまり対象の占有の概念に何がしかが付け加えられなければならない。しかし、ここでの実践的原則においては、順番は逆である。経験的占有を基礎づける直観のいっさいの条件が取り去られ(度外視され)なければ、経験的占有の概念を超えて占有の概念を拡張することはできないし、次のように言うこともできない。すなわち、どのようなものであれ、それを占有していないとしても私がそれを支配しているなら(そしてまたその限りで)、選択意志の外的対象は法的な私のものとみなすことができる。

 こうした占有の可能性、すなわち非経験的な占有の概念の演繹は、実践理性の法的要請にもとづいている。実践理性の法的要請とはすなわち、「(使用可能な)外的なものが誰かのものとなりうるように、他者に対して行為するということは、法義務である」というものであった。同時に、非経験的な占有の概念の演繹は、外的なものの概念の解明とも結びついている。外的なものの概念は、外的な誰かのものを単に非物理的な占有に基礎づけるものだからである。しかし、非物理的な占有の可能性はそれ自体では決して証明されないし、理解することもできない(というのもまさに、理性概念には対応する直観を与えることができないからである)ものであり、むしろ想定された要請から直接帰結するものである。というのも、例の法の法則に従って行為することが必然的であるのならば、(純粋に法による占有の)叡智的な条件もまた可能でなければならないからである。――これもまた当然のことだが、外的な私のもの・あなたのものの理論的原理は叡智界においては失われているし、拡張的な認識をもたらすこともない。というのも、この理論的原理が依拠している自由概念は、その可能性を理論的に演繹することはできないものであり、理性の事実として、ただ理性の実践法則から帰結されうることだからである。

*1:次の箇所は従来より、印刷所の手違いでこの箇所に不適切に挿入されたのではないかと考えられてきた。実際、次の箇所は第2章の主題である物権の取得について述べられており、この節のこの箇所に挿入されるなら、かなり不自然である。

 「例えば、こうした仕方で、ある土地の区画を占有するということは私的な選択意志の働きであるが、にもかかわらずそれは自分勝手なものではない。この占有者が依拠しているのは、大地の生得的共同占有Gemeinbesitzとこの共同占有にア・プリオリに対応する普遍的な意志であり、この普遍的意志が大地の一画を私的に占有することを許しているのだ(というのも、そうでなければ誰のものでもない物件は、それ自体で、また法則にしたがって、無主物となってしまうだろうからである)。そしてこの占有者は最初にその区画を占有したことによって根源的にその区画された土地を取得するが、その際この占有者は、この区画を私的に使用することを妨げようとする他のすべての人と、正当に(iure)対立することになる。ただし、占有者は自然状態では権利によって(de iure)他の人と対立することになるのではないが、なんとなればそれはここにはいまだ公法は存在しないからである。

 ある土地が自由だ、すなわち誰の使用にも開かれているとみなされるかそのように説明されることがあるとしても、しかし、物件すなわちこの土地に対して誰も占有することができないという関係にあるのだから、この土地は自然によって根源的に、すなわちあらゆる法的作用以前に自由である、というふうに言うことはできない。土地がこのように自由であるとすれば、誰もそれを利用してはならないという禁止を意味してしまうだろうからである。こうした禁止のためにはこの土地の共同占有が不可欠であり、それは契約なしにはありえない。しかし、契約を通してのみ自由でありうるような土地は、実際には、互いにこの土地の使用を差し控え停止する(よう互いに拘束しあっている)すべての人によって占有されていなければならない。【251】

 土地やそのうえにある物件をこのように根源的に共有しているということ(土地の根源的共有communio fundi originaria)は、客観的(法的・実践的)な実在性を持った一つの理念であり、間違いなく原始的な共有(communio primaeva)から区別されなければならない。後者は、創作である。というのも後者は、設立された共有であり契約に由来しなければならないからである。この契約を通して、すべての人は私的占有を断念し、各人は自らの占有を他者の占有と統合して自分の占有を共同占有に変換することになったということ、これは歴史が私たちに証明しなければならないものである。しかし、こうした手続きを根源的な占有確保Besitznehmungとしてみなし、すべての人は自分自身の占有をこの手続に基礎づけられうるし基礎づけなければならないとするのならば、矛盾である。

 占有Besitz(posessio)と占拠Sitz (sedes)は区別されるし、また将来取得するための土地の占有確保と定住Niederlassung、Ansiedelung(incolatus)とは区別される。後者はある場所を持続的に私的に占有することであり、その場所に主体が居合わせているということに依存する。二次的に法的な作用としての定住は占有確保は、占有確保に引き続きなされるかあるいはそれもせずに済ましてよいが、ここでは話題にしない。というのも、定住は決して根源的な占有ではなく、他の人の同意から導出される占有だからである。

 土地の単なる物理的占有(所持)はすでに物件における一つの権利であるが、もちろんその土地を私のものとみなすにはなお十分ではない。土地の物理的占有は、(他者が認める限りで)最初の占有として、他者との関係で言えば、外的な自由の法則と一致し、同時に根源的共同占有に含まれているものである。根源的共同占有には、私的占有の可能性の根拠がア・プリオリに含まれている。それゆえ、土地の最初の所持者がその土地を使用することを妨げるということは、侵害である。したがって最初の占有確保にはそれ自体で権原Rechtsgrund(占有の権原titulus possesionis)があることになるが、この権現は根源的に共有されている占有である。そして、「占有しているものは幸いである(beati possidentes)、誰もその占有を記録するよう拘束されてはいないのだから」という命題は自然権の原則であり、この原則によって最初の占有確保が取得の法的根拠とされるわけである。この根拠に基づいてどのような人も最初の占有者となるのである。」