カント『法論』#13(私法第1編#4)

第1部 私法:外的な私のもの・あなたのもの一般について
第1編 外的なものを自分のものとしてもつ仕方について

§1
§2 実践理性の法的要請
§3
§4 外的な私のもの・あなたのものの概念の解明
§5 外的な私のもの・あなたのものの概念の定義
§6 外的対象の純粋に法による占有の概念の演繹
§7 外的な私のもの・あなたのものの可能性の原理の、経験の対象への適用

§7. 外的な私のもの・あなたのものの可能性の原理の、経験の対象への適用

 純粋に法による占有の概念は、決して経験的な(空間と時間の諸条件に依存する)概念ではないが、にもかかわらずそれは【253】実践的実在性を有している。つまりこの概念は空間と時間の諸条件によってしか認識されない経験の対象に適用することができるのである。可能な外的な私のもの・あなたのものに関する法概念の手続きは以下のとおりである。理性の中にだけ存在する法概念は、決して直接、経験の対象や経験的占有の概念に適用することはできず、まずは占有一般の純粋悟性概念へと適用されなければならない。そうすれば、占有の経験的表象である所持(detentio)の代わりに、いかなる空間・時間の条件をも捨象した「もつHaben」という概念を考えることになるし、また、対象が私の支配のもとにある(in potestate mea positum esse)ということだけを考えることになる。この場合、外的なものという表現は、私が今いるところとは別の場所に存在するということを意味するのでもなく、また〔契約の際に相手方から〕申込みがあったのとは別の時間に私の意志決定がなされ、その申込みを承諾するということを意味するのでもなく、むしろただ私とは区別された対象だけを意味することになる。今や、実践理性は法の法則を通じて、次のことを意志する。自由の法則にしたがって選択意志を規定するということに関わる以上、私は、感性的条件にしたがってではなくむしろそれを捨象して、私のもの・あなたのものが対象へと適用されていると考え、またその占有を考える。このことは、悟性概念を法概念のもとへと包摂することで可能になる。したがって、私は今やこう言うだろう。私はある畑を占有する、それが私のいるところとはまったく別のところにあるとしても、あたかもそこに私が実際にいるかのようにして占有する、と。というのもここで重要なのは、この畑を支配している(これは空間的条件から独立した占有の悟性概念である)という限りにおいて、私がその対象に対して持つ知性的な関係だけだからである。そして、この対象を好きなように使用するように規定された私の意志が外的な自由の法則と衝突するということはないのだから、この対象は私のものである。私の選択意志の対象が現象において占有(所持)されているかどうかということを度外視し、実践理性は、占有が悟性概念にしたがって、すなわち経験的概念ではなく、ア・プリオリな占有の条件を含みうる概念にしたがって考えられることを意志しているということ、まさにここにこうした占有(叡智的占有possesio noumenon)の概念が普遍妥当的な立法として効力を持つことの根拠がある。というのも、普遍妥当的な立法は「この外的対象は私のものである」という表現に含まれているからである。なんとなれば、他のすべての人は、そうでなければ〔こうした宣言がなければ〕ありえなかったであろう拘束性を課せられて、この対象の使用を控えなければならなくなるからだ。

 したがって、私の外にあるものを私のものとして持つ仕方は、【254】純粋に法によって主体の意志とその対象を結合するということであり、それは空間と時間において主体と対象が持つ関係からは独立しており、叡智的占有の概念にしたがったものである。――土地の一画は、それを私が自分の身体によって占めているから私のものとなるのではない(というのも、ここでは私の外的な自由だけが問題であり、すなわち私の外的自由の占有そのものは私の外にあるものではなく、したがって内的な権利にすぎないからである)。むしろ、それが私のものとなるのは、私がその一画から離れて別の場所に赴いていたとしても、私がその一画をそれでも占有していると言える場合だけであり、この場合には私の外的な権利だけが問題になっているのである。しかし、この一画を私のものとして持つための条件として、私の人格によってこの一画が持続的に占有されていなければならないとする人は、次のいずれかを主張していることにならざるをえない。すなわち、外的なものを自分のものとしてもつということはまったく不可能であると主張するか(これは2節の要請に反している)、あるいは、これが可能となるためには私は二つの場所に同時に存在しなければならないと要求することになるのである。しかし、後者は私が一つの場所に同時に存在しまた存在しないべきだと言っているに等しく、矛盾している。

 こうしたことは、私が約束を承諾するという状況にも適用できる。実際、約束をした人があるときこの物件はあなたのものですと言い、しかし後になって同じ物件について、これをあなたのものにはしたくないと今決めたと言うとしても、これによって約束のものについて私の財産が破棄されるということにはならない。というのもこうした知性的関係にとって重要なのは、あたかも約束をした人が自身の意志についての二つの言明のあいだに時間差がなかったかのように、この物件はあなたのものであると言うと同時にこの物件はあなたのものではないと言うような事情だからである。これはそれ自体で矛盾している。

 同様のことはまた、主体のもつものに属している(妻や子、奴隷)ような、人格を法によって占有するという概念にも妥当する。つまり、こうした家共同体とそのすべての成員の状態を相互に占有しているということは、互いに別々の場所に離れているという権能によっては、破棄されない。なぜなら、法的関係性が彼らを結びつけているものであり、ここでは外的な私のもの・あなたのものは前述の事例とまさに同様に所持抜きの純粋な理性占有の可能性の前提にまったく依拠しているからである。

 外的な私のもの・あなたのものの概念に関する法的・実践的理性批判がこうしたことを行わなければならないのは、そもそも、占有の可能性をめぐる二つの命題のアンチノミーの所以である。【255】すなわち、テーゼとアンチテーゼの両方が相互に対立する二つの条件がそれぞれ妥当であることを要求し、不可避の弁証論に陥ることによって、理性は(法に関する)実践的な理性使用においても、現象としての占有と悟性のみによって考えられる占有との区別をつけるよう迫られるのである。

定立:私がそれを占有していないとしても、外的なものを私のものとしてもつことは可能である。

反定立:私がそれを占有していないのなら、外的なものを私のものとしてもつことは不可能である。

解決:前者は占有を経験的占有(possessio phaenomenon)、後者は叡智的占有(possessio noumenon)の意味に解するなら、二つの命題は正しい。――しかし叡智的占有の可能性、すなわち外的な私のもの・あなたのものの可能性は理解しがたく、実践理性の要請から帰結するのでなければならない。ここでさらに特に注目に値することがある。実践理性は、直観、しかもア・プリオリな直観さえ必要とすることなく、自由の法則によって経験的条件を捨象することが正当化されているということのみを理由にして、自らを拡張し、ア・プリオリな法の総合命題を定立することができるのであり、この証明は(直後で示されるが)そのあとで、実践的観点から分析的に導入されうるのだ。