カント『法論』#11(私法第1編#2)

第1部 私法:外的な私のもの・あなたのもの一般について
第1編 外的なものを自分のものとしてもつ仕方について

第1部 私法:外的な私のもの・あなたのもの一般について

第1編 外的なものを自分のものとしてもつ仕方について
§1
§2 実践理性の法的要請
§3
§4 外的な私のもの・あなたのものの概念の解明
§5 外的な私のもの・あなたのものの概念の定義 

§4. 外的な私のもの・あなたのものの概念の解明

 【247】私の選択意志の外的な対象は、次の三つしかない。1. 私の外にある(有体)物、2.特定の行為への他者の選択意志(給付praestatio)、3. 私との関係における他者の状態。これらは、自由の法則にしたがった私と外的対象のあいだの実体・原因性・相互性のカテゴリーによるものである。

(a)

 私が空間における対象(有体物)を私のものであると呼ぶためには必ず、その物件を物理的に占有していないにもかかわらず、私はそれとは異なる現実的な仕方で(すなわち物理的にではなく)それを占有していると主張することができなくてはならない。したがって、私が一つの林檎を私のものだというのは、それを私が手中に収めている(物理的に占有している)からではなくて、私が林檎を手放してそれをどこにやろうとも、私はそれを占有していると言うことができる場合だけである。同様に、私は自分が立っている土地について、私がここに立っているのだからこれは私のものだということはできないだろう。むしろ、この場所を私が去ったとしても、この土地は相変わらず私に占有されていると主張することができる場合にだけ、この土地は私のものだということができるのである。【248】というのも、前者の(経験的占有の)場合、私の手からその林檎を奪い取るか、あるいは居所から私を連れ去ってしまおうとする人は、たしかに内的な私のもの(自由)に関して私を侵害しているが、しかし、もし対象を所持していなくてもその対象を占有していると主張できないとすれば、外的な私のものに関して私を侵害したことにはならないのである。もしそうだとすると、私はこの対象(リンゴや居所)を私のものだということはできなくなってしまうだろう。

(b)

 他者の選択意志を通じて何かを給付してもらう場合、この給付は他者の約束と同時に(対象に関して締結された契約pactum re initum)私に占有されることになるとしか言えないのであれば、その給付を私のものだと呼ぶことはできない。そうあるためには、まだ給付の期限〔時間Zeit〕がきていないとしても、他者の選択意志を占有している(他者の選択意志を行為の給付へと規定する)と主張できる場合だけである。したがって、こうした状況の約束(能動的拘束obligatio activa)は私の財産に属しており、私はそれを私のものに含めることができる。しかし、それは単に私が約束されたものを(最初の場合のように)すでに占有している場合だけではなく、私が約束されたものをいまだに占有していない場合もそうなのである。したがって私は、時間の条件に制限された占有、すなわち経験的な占有に依存しておらず、にもかかわらずこの対象を占有していると考えることができなくてはならない。

(c)

 私は妻や子供、奉公人、そして一般に他の人格を私のものと呼ぶことができるが、それは私が彼らを私の家に属している人々として今指揮しているから、あるいは彼らを囲いにいれ、私の権力のもとで彼らを占有しているからではない。それはむしろ、彼らが〔私の〕強要から逃れており、したがって私は彼らを(経験的に)占有しているのではないとしても、彼らがいつかどこかに存在している限り、それでも私は彼らを私の意志だけを通じて占有している、すなわち純粋に法によって占有していると言える場合である。したがって、このことが主張できる場合に、その限りでのみ、彼らは私の財産に属している。

 

§5. 外的な私のもの・あなたのものの概念の定義

 名目的説明 、すなわち客体を他のすべての客体から区別するのには十分であり、また完全・正確な概念の解明から生じる説明は、こうなるだろう。外的な私のものは、私の外にあって、それを私が好きなように使用することを【249】妨げるなら、私にとって侵害(万人の自由と普遍的法則にしたがって両立しうる私の自由の毀損)となるようなものである。――しかし、この概念の演繹(対象の可能性の認識)にもまた十分である、この概念の実質的説明はこうなるだろう。外的な私のものは、私がそれを占有していないとしても(その対象を所持しているのではないとしても)、私がそれを使用することを妨害すれば、私にとって侵害となるようなものである。――外的対象を私のものだと呼ぶためには、私はそれを何らかの仕方で占有していなければならない。というのも、そうでなければ、私の意志に反してこの対象に働きかけようとする人は、同時に私にも働きかけるということにはならないし、それゆえ私を侵害したということにもならない。したがって、外的な私のもの・あなたのものが存在するとすれば、4節の帰結より、叡智的占有(possessio noumenon)は可能であるとして前提されなければならない。そして、経験的占有(所持)はただ現象における占有(現象的占有possessio phaenomenon)であることになる。ところが、私が占有する対象はこの場合、超越論的分析論のときと同様、それ自体現象と見られるのではなくて、物件自体Sache an sichとして見られる。というのも、超越論的分析論において、理性は物の自然の理論的認識に従事していたが、ここで理性にできることといえば、自由の法則にしたがって選択意志を実践的に規定することであり、それは対象が感官を通じて認識されうるものであろうが純粋悟性を通じてのみ認識されうるものであろうが変わりはない。そして法は、自由の法則のもとでの選択意志というこうした純粋実践理性概念なのである。

 それゆえまさに、あれこれの対象への権利を占有しているというのではなくて、むしろあれこれの対象を純粋に法によって占有しているという方が理に適っているだろう。というのも、権利というのはすでに対象を叡智的に占有することであるからで、占有を占有するというとすれば無意味な表現になるだろう。