カント『法論』#14(私法第1編#5)

第1部 私法:外的な私のもの・あなたのもの一般について
第1編 外的なものを自分のものとしてもつ仕方について

§1
§2 実践理性の法的要請
§3
§4 外的な私のもの・あなたのものの概念の解明
§5 外的な私のもの・あなたのものの概念の定義
§6 外的対象の純粋に法による占有の概念の演繹
§7 外的な私のもの・あなたのものの可能性の原理の、経験の対象への適用
§8 外的なものを自分のものとしてもつということは、ただ公的な立法権のもとでの法的状態、すなわち市民状態でのみ可能である
§9 自然状態では、現実的ではあるが、ただ暫定的な外的な私のもの・あなたのものしか存在しえない 

§8. 外的なものを自分のものとしてもつということは、ただ公的な立法権のもとでの法的状態、すなわち市民状態でのみ可能である

 私が(言葉によってか行為を通じてか)私は外的ななにかを私のものにしようと思うと宣言すれば、他のすべての人が私の選択意志の対象に手を出さないように拘束されていると宣言することになる。こうした拘束は、私のこうした法的な作用がなければ誰にも課せられなかったであろう。しかし、こうした思い上がった宣言においては、同時に、他のすべての人もまた外的な自分のものについて互いに同じ程度に手を出さないよう拘束されていると公言されるのである。というのも、ここで拘束性は外的な法的関係性という普遍的規則に由来しているからである。それゆえ、私が他人の外的なものを侵害しないように拘束されていながら、他方で他のすべての人が私にはそれを保障しない、というようなことはない。【256】私がそのように拘束されているのなら、他者も私のものについて同様の原理に従って振る舞うことになるだろう。こうした保障には特別な法的作用は必要ではなく、それはすでに外的で法的な義務付けの概念のなかに、その普遍性のゆえに含まれている、それゆえまた普遍的規則に由来する拘束性の互酬性のなかに含まれているものである。――外的な、それゆえ偶然的な占有に際しての一方的な意志は、すべての人に対する強制法則となりえない。そうであるならば、普遍的法則に従って自由が毀損されてしまうからである。したがって、ただ他のすべての人を拘束する意志、それゆえ集団の普遍的(共通の)かつ権力を持った意志だけが、すべての人に〔外的なものを侵害しないよう〕保障することができる意志である。――ところで、権力を備えた普遍的かつ外的(すなわち公的)な立法のもとでの状態は市民状態である。したがって、市民状態においてのみ、外的な私のもの・あなたのものは存在することができる。

結論 外的な対象を自分のものとしてもつということが法的に可能でなければならないなら、主体には、こうした客体に関して私のものとあなたのものとの争いが生じることになる他のすべての人を強制して、自分とともに市民的体制に入るようにするということが、許容されている。

 

§9. 自然状態では、現実的ではあるが、ただ暫定的な外的な私のもの・あなたのものしか存在しえない

 市民的体制の状態における自然権(すなわち、市民的体制に関してア・プリオリな原理から導出されうるような権利)は、市民的体制の実定法を通じて毀損されることはないし、「私の選択意志の対象を私のものにすることを不可能にするような格率にしたがって行為する人は私を侵害する」という法的原理は効力を保ったままである。というのも、ただ市民的体制を通じてのみ各人のものが各人に保障されることになるが、しかし市民的体制を通じて各人のものが取り決められたり規定されたりされるということは本来ないからである。したがって、どのように保障されるにしても、すでに(保障されることになる)誰かのものが前提とされている。それゆえ、市民的体制以前に(あるいは市民的体制を度外視しても)外的な私のもの・あなたのものは可能だとみなさなければならないし、同時に、我々が何らかの仕方で交際することになるすべての人を強要して、我々とともに自分のものが保障されうる体制に入るようにするという権利がある。――【257】共通意志の法則にしか基礎を持ちえず、それゆえ共通意志の可能性に合致したこうした体制を期待しまたそれに備えるなかでなされる占有は、暫定的に法的な占有である。それに対して、現実のこうした体制における占有は確定的な占有となるだろう。この体制に入る以前には、主体がその心構えができているなら、これを快く思わず、その主体の一時的な占有を妨害しようとする人に対して対立するのは正しい。というのも、その主体以外の他のすべての人の意志が、主体に対してある種の占有を差し控えるように拘束性を課すと考えるにしても、それはただ一方的であるにすぎず、それゆえ(ただ普遍的意志にのみ見いだされるような)法則的な効力をもって市民的体制の導入と設立に反対することはできないからである。これは、その主体の意志が法則的な効力をもってそれに合意するよう主張できないのと同様である。この場合、他のすべての人の意志はその主体一人の意志を上回っているのだ。――簡潔に言えば、自然状態で外的なものを自分のものとしてもつ仕方は物理的占有であり、物理的占有には、すべての人の意志と統一することを通じてその占有を公法の立法のもとで法的な占有へと変えるための、法的推定があるのであって、こうした市民的体制への期待において相対的に法的な占有としてみなされる。

 「占有する人は幸いである(beati possidentes)」という公式にしたがって、経験的な占有状態から由来するこうした権利の優越性は、占有する人が正しい人であると推定されるがために、何かを適法的な仕方で占有していると証明するよう強要されることがない、という意味ではない。その意味はむしろこうである。すなわち、実践理性の要請にしたがって選択意志の外的対象を自分のものとしてもつ能力が各人に認められるがゆえに、どのように対象が所持されようとも、この状態の適法性はそれに先立つ意志の作用を通じて実践理性の要請に基づいており、したがって、同じ対象が他の人に先に占有されているのではないなら、暫定的に、外的な自由の法則にしたがって、公法による自由の状態に入ることを望まないすべての人に対して、この対象をどんな形であれ不当に使用することを妨げることが正当化される。これによって、理性の要請に適った仕方で、そうでなければ実践的に無にされてしまうであろう物件を自分で使用することができるようになる。