カント『法論』#10(私法第1編#1)

第1部 私法:外的な私のもの・あなたのもの一般について
第1編 外的なものを自分のものとしてもつ仕方について

第1部 私法:外的な私のもの・あなたのもの一般について

第1編 外的なものを自分のものとしてもつ仕方について
§1
§2 実践理性の法的要請
§3 

§1.

 【245】法的な私のもの(meum iuris)は、他者が私の同意なくそれを使用するとすれば、私が侵害されるだろう、という仕方で私と結びついたものである。使用というものが一般に可能であるための主観的な条件は、占有Besitzである。

 ところで、外的なものが私のものとなる場合、必ず、それを私が占有しているのではないにもかかわらず、ある物件を他者が使用することによって、同様に私が侵害されるということがありうると想定することができなくてはならない。――したがって、占有の概念が異なる意味のうちのいずれか、すなわち感性的占有か叡智的占有かのいずれかの意味に解され、一方は対象の物理的占有、他方は対象の純粋に法によるbloß-rechtlich占有として解されうるのでなければ、外的なものを自分のものとしてもつということは自己矛盾することになるだろう。

 ところで、「ある対象が私の外にあるein Gegenstand ist außer mir」という表現は、次のいずれかのことを意味しうる。すなわち、それはただ私(主体)から区別される対象であるということか、それに加えて空間あるいは時間的に別のところ(positus)に存在する対象であるということかのいずれかである。外的なものを前者の意味に解する場合にだけ、占有を理性占有として思考することができる。他方、後者の意味においては、経験的な占有になってしまわざるをえないだろう。――【246】叡智的占有(そういうものが可能であるとして)は所持Inhabung(detentio)を伴わない占有である。

 

§2. 実践理性の法的要請

 どのようなものであれ私の選択意志の外的対象を私のものとしてもつことは、可能である。すなわち、何らかの格率があり、それが法則化され、その格率にしたがうと、選択意志の対象それ自体が(客観的に)無主物(res nullius)となってしまわざるをえないのだとすれば、そのような格率は法に反している 。

 というのも、私が物理的に使用することが可能であるものが、私の選択意志の外的な対象であるからである。にもかかわらず、もしそれを使用することが法的にまったく不可能であるとされるのであれば 、すなわち、それを使用することが誰の自由とも普遍的法則にしたがって両立しえない(不正である)とされるのであれば、選択意志の対象に関して、自由は自由な選択意志の使用を自らから剥ぎとってしまうことになってしまうだろう。というのも、自由によって使用可能な対象があらゆる使用可能性の外部に置かれてしまう、すなわち使用可能な対象が実践的観点から無きものにされ、その結果無主物になってしまうからである。〔この場合の私の〕選択意志は形式的には、その物件を使用するにあたって、すべての人の外的な自由と普遍的法則にしたがって両立しているにもかかわらず、である。――純粋実践理性は選択意志の使用の形式的な法則にしかもとづいておらず、それゆえ選択意志の実質、すなわちそれが選択意志の対象であるという以外の客体の性状を捨象するので、純粋実践理性はこうした選択意志の対象について、その使用を絶対的に禁止することはありえない。もしそうだとすれば、外的自由が自己矛盾をきたしてしまうことになるからである。――ところで、私がある対象を好きなように使用する物理的能力を有しており、それを使用することが可能である(potentia)ものが、私の選択意志の対象であった。これからさらに区別されなければならないのは、この対象を私が支配して(私の支配権に服させてin potestatem meam redactum)いるということであり、これは単に能力だけでなく、選択意志の作用もまた前提とされる。しかし、何かを単に私の選択意志の対象として考えるだけなら、私はその対象を使用することが可能であるということが意識されているだけで十分である。――したがって、どのようなものであれ私の選択意志の対象を客観的に可能な私のもの・あなたのものとしてみなし、またそう扱うことは、実践理性のア・プリオリな前提である。【247】

 この要請は実践理性の許容法則(lex permissiva)と呼ばれうるものであり、それは権利一般の単なる概念からは引き出しえない権能を我々に与えてくれる。それはすなわち、我々の選択意志のなんらかの対象を、我々がそれを最初に占有したからという理由で、使用することを差し控えるよう他のすべての人に拘束性を課す権能であり、そうした拘束性はそうでなければ〔許容法則がなければ〕課せられることはなかったであろう。理性はこのことが原則として、しかも実践理性として妥当することを望むのだが、実践理性はこの要請を通してア・プリオリに拡張されるのである。

 

§3.

 ある物件を自分のものとしてもつことを主張しようとする人は、対象を占有していなければならない。というのも、その人が対象を占有していなければ、他者がその人の同意なくそれを使用したとしてもその人が侵害されたことにはならないからである。なぜなら、その人の外にあるもので、法的にその人とまったく結合していないような対象に他者が働きかけたとしても、その人(主体)自身に働きかけたことにはならないだろうし、不正を為すということにもならないだろうからである。