カント『法論』#4(道徳の形而上学への序論#2)

道徳の形而上学への序論

道徳の形而上学への序論
 1.人間の心の能力と道徳法則の関係について
 2.道徳の形而上学の理念と必然性について
 3.道徳の形而上学の区分について
 4.道徳の形而上学への予備概念

この第3節も順序の奇妙さが指摘されている(B. Ludwig)。むしろ第4節→第3節とすべきではないかというのである。参考までに。

3.道徳の形而上学の区分について*1218

 どのような立法(それが内的行為か外的行為のいずれを規定するかにかかわらず、また、外的な行為について、理性のみによってア・プリオリに規定するのか、あるいは他の人の選択意志によって規定するのかにかかわらず)にも含まれるのは、次の二つの部分である。それは第一に法則であり、それはなされるべき行為を客観的に必然的なものとして表象する、すなわち、その行為を義務とするものである。第二に動機であり、それは選択意志をこうした行為へと規定する根拠を主観的に法則の表象と結びつける。法則を通じてその行為は義務として表象されるが、これは選択意志の規定可能性の理論的認識にすぎない。これに対して、動機を通じて、このように行為せよという拘束が、主体における選択意志一般の規定根拠と結び付けられる。

 したがってどのような立法でも(義務とされた行為の観点からすれば、立法が他者の立法と一致する場合、例えば、【219】行為が常に外的であるような場合でも)、それでも動機の観点から区別することができる。ある行為を義務とし、さらにこの義務を同時に動機とするような立法は、倫理的である。しかし、後者〔義務を同時に動機とすること〕を法則に含まない立法、したがって義務の理念そのものとは異なるような動機を許す立法は、法理的である。後者に関してすぐに分かるのは、義務の理念とは異なるこうした動機は、傾向性や忌避感 といった感性的な選択意志の規定根拠から、しかもこうした規定根拠のうち後者の種類の規定根拠〔忌避感〕から、持ちだされてくるに違いない、ということである。というのも、人をある行為へと強制するような立法は、その行為をしたいような気にさせるものではないからである。

 行為の動機を度外視して、ある行為が法則に単に合致しているか合致していないかということをいう場合、これは行為の合法性(適法性)と呼ばれる。他方、行為が法則に合致しているかどうかを問題にし、そこで法則から生じる義務の理念が同時に行為の動機となっているのであれば、それは行為の道徳性(倫理性)と呼ばれる。

 法的立法にもとづく義務はただ外的な義務にすぎない。というのも、この立法は内面のものである義務の理念そのものが行為者の選択意志の規定根拠となることを要求せず、しかし法的立法であっても法則にふさわしい動機を必要とするので、法的立法はただ外的な動機を法則と結びつけるしかないからである。これに対して、倫理的立法は確かに内的な行為を義務とするものだが、しかし外的行為を排除するのではなく、義務たるものすべてに一般に関係する。しかし、倫理的立法は自らの法則のうちに行為の内的な動機を含んでおり、そうした規定は外的立法には決して入り込んではならないのだから、倫理的立法は外的な立法ではありえない(し、神的意志による立法でさえない)。ただし、倫理的立法は他方の、外的立法にもとづく義務を、動機に対して向けられた立法の義務として受け取るのではあるけれども。

 ここから理解されるのは、あらゆる義務はそれが義務であるというただそれだけのために、倫理学に属しているということである。だが、その代わりに、義務の立法がすべて倫理学のなかに含まれるというわけではなく、そのなかの多くのものは倫理学の外部にある。そこで、契約の相手が私を強制しなかったとしても、私は契約のときの申し出を履行しなくてはならないと倫理学が命じるとしよう。しかし〔このとき〕倫理学は、(契約は維持されねばならないpacta sunt servandaという)法則とこれに対応する義務を、法論から与えられたものとして受け取るのである。【220】したがって、倫理学ではなく法論Iusのなかにこそ、為された約束は守られねばならないという立法が属しているのである。そのあとで倫理学はただ、法理的立法がこうした義務と結びつけた動機、すなわち外的強制を取り去ったとしても、義務の理念だけでも動機として既に十分である、ということを教えるだけである。というのも、そうならずに、立法自体が法理的ではなく、立法から発する義務が本来は(徳義務と区別される)法義務ではないとするならば、(契約においてなした約束に)誠実であるということが、善意の行為とその行為への義務付けとともども、一つの分類に入れられてしまうだろうが、このようなことは決してあってはならない。自らの約束を守るということは徳義務ではなく法義務であり、法義務はそれを果たすよう強制されうるものなのである。しかしにもかかわらず、強制が与えられてはならない場合に、それ〔法義務〕を果たすということは、有徳な行為(徳の証明)である。したがって法論と徳論はそれらの異なる義務によって区別されるのではなく、むしろあれやこれやの動機を法則と結びつける立法の違いによって区別される。

 倫理的立法(その義務が外的なものであったとしても)は、外的ではありえない立法である。法理的立法は、外的でもありうる立法である。それゆえ、契約に合致した約束を守るということは外的義務であるが、これが義務であるがゆえにのみ約束を守り、それ以外の動機を考慮しないことを命じる命令は、ただ内的な立法のみに属している。したがって、特別な種類の義務(拘束のある特別な種類の行為)としてではなく――というのも倫理学のなかにも法のなかにも外的義務はあるからである――、むしろ先に述べたケースでの立法は内的なものであり外的な立法者を持ちえないという理由で、その拘束は倫理学に数え入れられるのである。同様の理由で、善意の義務は、それが外的義務(外的行為への拘束)であっても、それでも倫理学に数え入れられるが、それはその立法がただ内的にのみ可能だからである。確かに倫理学には特別な義務(例えば、自分自身に対する義務)があるが、しかし義務が法と共通しているのであって、義務付けの仕方が共通しているのではない。というのも、それが義務であるという理由によってのみその行為を実行し、義務の原則そのものを、それがどこから由来しようとも、選択意志の十分な動機とすることは、倫理的立法の本来的なあり方なのである。【221】したがって、確かに直接的に倫理的な義務はたくさんあるが、しかし内的立法はその他のすべての義務を間接的に倫理的な義務とするのである。

*1:原注 一つの体系の区分の演繹、すなわちその完全性と一貫性の証明は、つまるところ、下位区分の全系列において跳躍すること(跳躍による区分divisio per saltum)なしに区分された諸概念から区分の項目へと移行するということなのだが、これは体系の建築家にとって満たすことの最も難しい条件の一つである。また、正しい・正しくない(aut fas aut nefas)という区分に対する最上位の概念の区分はどのようなものか、ということにも困難がある。これは自由な選択意志の作用一般である。存在論の教師が最上位のものとして有と無から始める場合に、これがすでに区分の項目になっており、区分のためにはなお区分された概念が欠けているということが気づかれていないのと同じである。この場合、その概念とは対象一般の概念にほかならない。