カント『法論』#3(道徳の形而上学への序論#1)

道徳の形而上学への序論

道徳の形而上学への序論
 1.人間の心の能力と道徳法則の関係について
 2.道徳の形而上学の理念と必然性について
 3.道徳の形而上学の区分について
 4.道徳の形而上学への予備概念

以下の「道徳の形而上学への序論」の第1節と第2節は、順番が本来は逆ではないかという指摘がある(cf. Bernd Ludwig)。実際、第2節とされている方から読んだほうが、読みやすいと思われる。  

1. 人間の心の能力と道徳法則の関係について

 【211】欲求能力は、自らの表象を通じて、この表象の対象の原因となる能力である。自らの表象に応じて行為する存在者の能力は、生と呼ばれる。

 欲求・嫌悪と結びついているのは、第一に常に快・不快であるが、必ずしもその逆が成り立つとは限らない。快・不快を受容するものは感情と呼ばれる。実際、対象を欲求することとは結びつかない快もあり、何らかの対象を単に表象することと結びついている快もある(この場合、表象の客体が存在するかどうかには関わりがない)。また第二に、欲求の対象についての快・不快は必ずしも欲求に先立つわけではなく、したがって、必ずしも欲求の対象の原因としてみなさなければいけないわけではなく、むしろその帰結としてみなすことができる場合もある。

 ところで、何らかの表象において快・不快を感じる能力が感情と呼ばれているのは、快・不快が我々の表象との関係において単に主観的なものを含むだけであり、可能な客体の認識における客体との関係を全く含んでいないからである(我々の状態の認識*1における客体の関係さえ含まない)。【212】というのも、そうでなければ、諸感覚自体が、主体の性状によって諸感覚に付随する質(例えば「赤い」や「甘い」)の他に、なお認識の構成要素として客体に関わるということになるだろうが、(赤いや甘いといった感覚における)快・不快は客体についてまったく何も表さず、ただ主体に対する関係だけを表すだけである。快・不快そのものをこれ以上説明することは今述べた理由から不可能であり、快・不快という言葉を使用する際にそれらを識別可能にするために、ある状況で快・不快がどのように帰結するのかということしか述べることはできない。
(それを表象すれば感情が触発されるような対象の)欲求と必然的に結びついている快は、実践的快と呼ばれる。それは欲求の原因か、あるいは帰結かのいずれかである。これに対して、対象の欲求と必然的に結びついているわけではない快、したがって根本的には表象の客体を存在させたいという欲求ではなく、むしろただ表象にのみ附帯するような快は、単に思弁的快あるいは非活動的満足と呼べるだろう。後者の種類の快の感情は趣味と呼ばれる。これについて実践哲学では、固有の概念としてではなく、常にただ挿話として扱われる。これに対して、実践的快について言えば、快が原因として必然的に先行して欲求能力が規定される場合、この欲求能力を規定するものが欲望、また習慣的な欲望は傾向性と呼ばれる。さらに、欲求能力と快が結びつき、この結びつきが(常に主体に対してだけではあるが)普遍的な規則として妥当すると悟性が判断する場合、この結びつきは関心と呼ばれる。それゆえ、この場合、実践的快は傾向性の関心になることになる。それに対して、欲求能力が先に規定されてはじめて快が訪れるという場合、この快は知性的快、この快の対象への関心は理性の関心と呼ばれねばならないだろう。というのも、もし関心が感性的であり、純粋な理性原理にだけ基づいているわけではないなら、【213】感覚こそが快と結び付いているに違いなく、感覚が欲求能力をそのように規定することになるからである。ただ純粋な理性の関心を想定せねばならず、それに対してはいかなる傾向性の関心もあてがうことができないとしても、我々は、語法の都合上、知性的快の対象でしかありえないものに対する傾向性を、純粋な理性の関心から生じた習慣的な欲求として認めることができるだろう。これを認めた上で、にもかかわらず、この知性的快は純粋な理性の関心の原因ではなく帰結であり、感性を欠いた傾向性(知性的傾向性propensio intellectualis)と呼ばれうる。

 さらに、欲情(渇望)は欲求を規定する刺激となるものとして、欲求そのものとは区別されなければならない。強欲は必ず感性的に心を規定するものだが、いまだ欲求能力の働きには至っていない。

 欲求能力を規定し行為へと至らせる根拠が主体自身のうちにあり、客体にあるのではない場合、欲求能力は概念によるものであり、それは任意に何かをしたりしなかったりする能力と呼ばれる。欲求能力が、客体をもたらすための行為が可能であるという意識と結びついている場合、それは選択意志と呼ばれる。他方で、欲求能力がそのような意識と結びついていない場合は、欲求能力の働きは願望と呼ばれる。欲求能力の内的な規定根拠、したがって主体の好みが理性のうちにあるならば、そうした欲求根拠は意志と呼ばれる。それゆえ意志は欲求能力なのだが、(選択意志の場合のように)行為に関係するというよりは、むしろ選択意志を行為へと規定する根拠に関係するものとしてみなされる。意志以前には本来いかなる規定根拠も存在しない。意志が選択意志を規定しうる限りで、意志は実践理性そのものである。

 理性が欲求能力一般を規定しうる限りで、意志のもとには選択意志と、しかしまた単なる願望が含まれている。純粋理性によって規定されうる選択意志は、自由な選択意志と呼ばれる。選択意志がただ傾向性(感性的衝動、刺激)によってのみ規定されるとすれば、それは動物の選択意志(arbitrium brutum)になってしまうだろう。これに対して、人間の選択意志は衝動によって触発されはするが、規定されはしない。したがって、人間の選択意志はそれ自体では(理性を後天的に熟達させることなしには)純粋でないとはいえ、それでも純粋意志によって行為へと規定されうるのである。選択意志の自由は、感性的刺激による規定から独立しているということである。これは自由の消極的概念である。他方、積極的概念は、【214】それ自体で実践的である純粋理性の能力に求められる。しかしこれが可能であるためには必ず、どんな行為においてもその格率が普遍的法則に適したものであるという条件にしたがっていなければならない。というのも、選択意志の客体を度外視して純粋理性が選択意志に適用される場合、純粋理性は原理の能力(ここでは実践的原理の能力すなわち立法能力)として、法則の質料を度外視し、選択意志の格率が普遍的法則に適しているかという形式だけを選択意志の最高の法則かつ最高の規定根拠とするからであり、さらに言えば、人間が主観的な原因から生み出した格率はそれ自体では客観的法則と一致しないため、純粋理性がまさにこの普遍的法則だけを命令と禁止の命法として指定するからである。

 こうした自由の法則は、自然法則と区別して、道徳法則と呼ばれる。自由の法則が、ただ外的行為と適法性〔外的行為が法則に適っているか〕にかかわる場合、それは法理的だと言われる。他方でまた自由の法則が、それ(法則)自体が行為の規定根拠であるべきだということを要求する場合、それは倫理的だと言われる。そこで、前者の法則との一致が行為の合法性、後者の法則との一致が行為の道徳性と言われるのである 。前者の法則における自由は、ただ選択意志の外的な使用における自由だが、他方で後者の法則に関係する自由は、選択意志の外的かつ内的な使用における自由であり、この場合、選択意志は理性法則によって規定されている 。理論哲学においては、このように言われる。空間においては外的感官の対象があるばかりだが、時間においては外的感官と内的感官どちらもの対象がある、というのも、両者はどちらも表象であり、その限りでともに内的感官に属しているからである 。まったく同様に、自由が選択意志の外的使用か内的使用のいずれかにおいて考察されるとしても、しかし選択意志の法則は、自由な選択意志一般の純粋な理性法則として、同時にその自由な選択意志の内的な規定根拠でなければならない。ただし、それは必ずしも内的な規定根拠との関係で考察される必要はないのである。

 

2.道徳の形而上学の理念と必然性について

 外的感官の対象 に関わる自然学がア・プリオリな諸原理を持つに違いないということ、また、【215】この諸原理からなるひとつの体系を形而上学的自然学という名のもとで、特殊な経験に適用されたものである物理学に対して提出することが可能であるどころか必然であること、これらのことは、別のところで証明された。ただし物理学は(少なくともその諸命題が誤謬を免れている限りで)多くの原理を経験の証明にもとづいて普遍的なものとして承認することができる。もちろん、より厳密な意味で普遍的に妥当しなければならないとすれば、その原理はア・プリオリな根拠から導出されなければならないものではあるが。例えば、ニュートンは物体間の作用と反作用の影響が等しいという原理を経験に基づいたものとしてみなし、その原理を言わば物質的自然のすべてに拡張した。化学者はさらに、物質がその固有の力によって結合・分離するという普遍的な法則をあらゆる経験に基礎づけて、言わばその普遍性と必然性を信用し、その物質に対してなされた実験の結果、いかなる誤謬も発見されえない、としている。

 しかし、道徳法則については話が違う。それがア・プリオリに打ち立てられたものであり、必然的だとみなされることができてはじめて、それは法則として妥当する。実際、我々自身と我々の振る舞いに関する概念や判断がまったく道徳的なものでなくなってしまうのは、それらが経験からしか分からない事柄を含む場合である。経験的な源泉から出てくるものを道徳的原則 にしてしまうよう唆されれば、最も粗野で最も破滅的な誤謬を犯す危険に直面することになる。

 もし倫理学が幸福の学と異ならないとすれば、倫理学のためにア・プリオリな諸原理を探してまわっても馬鹿げたことになるだろう。というのも、理性が経験を前にして、どのような手段を用いれば生の本当の喜びを永続的に享受することができるかということを洞察しうるように見えたとしても、しかしそれについてア・プリオリに教えられるものは、トートロジーかあるいはまったく無根拠なものだとみなされるからである。経験が教えることができるのは、我々に喜びをもたらしてくれるのはなにか、ということだけである。食事や性、安寧、運動への自然な衝動、そして(我々の自然の素質から展開される)名誉や知識の拡張などへの衝動は、各人がどこにそれらの喜びを見出すのかを、各人に特殊なやり方で認識させるにすぎないし、またそのようなやり方によって各人が学びえるのは、その喜びを見つけ出すための手段である。この場合、どれほどア・プリオリに理性を用いているように見えたとしても、根本的には、帰納によって普遍性にまで【216】高められた経験以外にはありえない。そうした(普遍的ではなく一般的原理にしたがったsecundum principia generalia non universalia)普遍性はア・プリオリな理性の使用に達するにはいまだ貧弱であり、それゆえに、各人に無限に多くの例外が認められてはじめて、自分の生き方を選択して各人特有の享楽への傾向性や感受性に適合し、最終的に自分自身あるいは他人に起こった損失を通して思慮深くなっていくことができる。

 しかし、道徳に関する学問については話が違う。道徳はすべての人にその人の傾向性を顧慮することなく命令する。その理由、その条件は、ただその人が自由であり、実践理性を持っているからだというだけのことである。道徳法則の教えは、自分自身を観察したり自らのなかの動物性を観察したりすることから、すなわち物事の成り行きを知覚することから創られるわけではない(ドイツ語のSittenは、ラテン語moresと同様に、マナーや生活様式しか意味しないのではあるが)。むしろ、理性がどのように行為するべきかを命じるのであって、そのような実例が見つからないとしても、理性は一切利益を顧慮しないのである。利益というものは、実例を通じて得ることができ、もちろん経験からしか学びえないのだと言われるとしても、である。確かに、理性は我々に可能なあらゆるやり方で利益を求めることを許容するし、それどころか経験が示すことにもとづいて、とりわけそこに思慮深さが加われば、理性の命令を遵守した方がそれを侵犯するよりも総じて大きな利益が得られる、ということが明らかなこともあるかもしれない。しかし、命令として理性が指示する際の権威は、こうしたことに基づいているわけではない。むしろ理性は逆の方へ傾いてしまわないよう均衡を取る錘としてだけ(助言としての)利益を用いるだけであり、それによって、実践的な判断の際に傾いてしまっている天秤の誤りを予め水平にし、そのあとではじめて、純粋実践理性のア・プリオリな根拠という錘を載せて、天秤の傾きを確実にするのである。

 したがって、単なる概念に基づくア・プリオリな認識の体系が形而上学と呼ばれるなら、自然ではなく選択意志の自由を対象にする実践哲学は、道徳形而上学を前提として必要とすることになるだろう。すなわち、道徳形而上学を持つことはそれ自体で義務なのである。実際、どんな人間でも、普通はぼやけた仕方でしかないが、自らのうちにそれを持っている。というのも、ア・プリオリな原理なしに、どうやって人間は自らのうちで普遍的な立法を行うと考えられるだろうか。他方、自然の形而上学においては自然一般の最高の普遍的原則を経験の対象に適用するための諸原理もあるのだが、同様に、道徳形而上学も【217】適用の原理を欠いたままにしておくということはできない。それゆえ、我々は経験を通してしか認識できない人間の特殊な自然〔本性〕をも対象としなければならないことが出てくるだろう。人間の自然に対して、普遍的な道徳原理からの推論を分からせるためである。しかし、そうしたところで、普遍的道徳原理の純粋性が奪われることなどないし、そのア・プリオリな起源が疑わしくなってしまうということもない。言い換えれば、道徳形而上学人間学にもとづくことはできず、むしろ人間学に対して適用することはできる。

 実践哲学一般の区分のうち、道徳形而上学に対応するもうひとつの項目を挙げるならば、道徳的人間学ということになるだろう。しかしそこに含まれるのは、人間の自然における道徳形而上学の法則の執行を阻止したり促進したりする、ただ主観的な諸条件、(育成や学校・人民教育において)道徳の根本原則を生み出したり、拡張したり、強化したりすること、そしてその他同様の、経験に基づいた教えや手引きである。道徳的人間学は欠くことができないものだが、決して道徳形而上学に先行したり、それと混同されたりしてはならない。というのも、もしそうすれば、誤った道徳法則、あるいは少なくとも、甘い道徳法則をもちだす危険をおかしてしまうからである。法則が純粋に見られたり述べられたりしなかったために(純粋性にこそ法則の強みはあるのだが)、また、判断の導きに対しても義務遵守の感情の訓育に対しても確実な道徳の原則を持ち合わせていない、まったく真正でない不純な動機が、それ自体で義務に適った善いものに付け加えられてしまったがために、それゆえにのみ達成できなくなっているだけのものを、誤った甘い道徳法則はまったく達成不可能なものに見せかけるのだ。義務のための指示は、まさにア・プリオリな純粋理性を通してのみ与えられなければならない。

 今述べた事柄〔道徳形而上学と道徳人間学〕の上位の区分は、理論哲学と実践哲学の区別である。後者は道徳哲学にほかならない。しかしこうした区分については、私は既に別のところ(『判断力批判』)で説明しておいた。自然法則にしたがって可能であるどのような実践的なもの(技術本来の働き)であっても、それが与える指示について言えば、自然の理論に依存している。自由法則にしたがった実践的なものだけが理論に依存しない原理を持つことができる。というのも、自然の規定を超えれば、いかなる理論も存在しないからである。したがって、(理論部門に対して)実践部門における哲学は、【218】技巧的な教説ではなく、ただ道徳実践的な教説としてしか理解されないということになる。そして、自然と対立する自由法則にしたがった選択意志の能力を、ここでももし技術と呼ぶとすれば、それは自由の体系を自然の体系のように可能にする技術として理解しなければならないだろう。しかし、それはまさに神的な技術である。理性が我々に指示するものをこの技術によって完全に実行し、理性の理念を実行に移すことができる、ということになってしまうだろうからである。

*1:原注 【211】感性は、我々の表象一般における主観的なものを通して説明可能である。というのも、悟性は第一に表象を客体に関係づける、つまり悟性だけが表象を介して何か〔客体〕を思考するからである。我々の表象の主観的なものは、一方では、認識の客体と(純粋直観である形式か、感覚である質料にしたがって)関係するという性質を持つと言える。この場合、感性は思考された表象を受容するものとして、感官である。他方【212】、表象における主観的なものは、認識の構成要素でありえないこともある。というのもこの場合、それは単に主体に対する関係を含み、使用可能な客体の認識についていかなる関係も含まないからである。だとするとこの表象の受容性は感情と呼ばれる。感情は、表象が主体に対して与える影響(これは感性的でも知性的でもありえる)を含み、表象自体が悟性あるいは理性に属していたとしても、感性に属している。