カント『法論』#6(法論への序論#1)

目次

序文

道徳の形而上学への序論

法論の形而上学への序論
 §A 法論とは何か
 §B 法とは何か
 §C 法の普遍的原理
 §D 権利は強制する権能と結びついている
 §E 厳格法は、普遍的法則にしたがった…
 法論への序論の補足:両義的な権利(Ius aequivocum)
 法論の区分

道徳の形而上学一般の区別


第1部 私法:外的な私のもの・あなたのもの一般について

第2部 公法

法論の形而上学への序論

§A 法論とは何か

 【229】外的立法が可能な法則の総体は、法論(Ius)と呼ばれる。こうした立法が実際になされたものであれば、法論は実定法論である。法曹あるいは法学者(Iurisconsultus)は、法に通暁している(Iurisperitus)と言われるが、それは外的法則を外的にも知っている、つまり法律を経験において生じる事例に適用することを知っているためである。法律の適用もまた法学識(Iurisprudentia)となりうる。他方、両者〔実定法と法則の適用〕を除いても、法哲学(Iurisscientia)が残る。この名称は自然法論(Ius naturae)の体系的な知にふさわしい。ただし、法曹も法哲学から実定的な立法のための揺るぎない原理を引き出すことができる。

 

§B 法とは何か

 この問いを前にして、トートロジーに陥ったり、あるいは一般的な解決の代わりに、いつかどこかの土地で法律が意図しているものだと答えたりしないようにするとすれば、法学者は困惑してしまうだろう。それは「真理とは何か」というよく引き合いに出される問題を前にした論理学者と同じである。合法なものRechtensは何か(quid sit iuris)、つまり、ある特定の時間と場所で法律が何を言明しているか・言明したかということについてなら、法学者はうまく答えることができる。しかし、法律が意図していることが正しいのかどうか、また一般に正・不正recht oder unrecht(iustum et iniustum)を区別する普遍的な基準については、法学者には隠されたままである。【230】これを理解するためには、一旦〔実定法実務の〕経験的な諸原理を離れ、判断の源泉を理性のみに求め(そのためには実定法がとりわけ導きの糸となりうるだろう)、可能な実定法の立法の基礎に到達しなければならない。単に経験的な法論は(ファエドルスの寓話に出てくる木偶の頭のように)、美しいかもしれないが、残念ながら(!)脳みそが空っぽの頭である。

 法の概念は、それに対応する拘束(拘束の道徳的概念 )について言えば、第一に、行為が事実Faktumとして互いに(直接的・間接的に)影響を与え合う可能性のある、一人格と他の人格の単に外的で実践的な関係に該当する。しかし第二に、それは善意や無情の行為におけるように、他者の願望に対する選択意志の関係ではなく(したがって単なる欲求に対する選択意志の関係ではなく)、ただ他者の選択意志に対する選択意志の関係を意味している。第三に、こうした選択意志相互の関係において、選択意志の質料、すなわち各人が欲する客体について意図している目的はまったく考察されない。例えば、誰かが自分の取引の際に私から買った商品に利益を見出すかどうかということは問われない。そうではなく、ただ自由だとみなされるかぎりでの双方の選択意志の関係における形式の観点から考察され、そして〔先の売買の例で言えば〕二人のうち一方の行為が他方の自由と普遍的法則にしたがって一致しうるかということだけが問われるのである。

 それゆえ法は、そのもとで一方の選択意志が他方の選択意志と普遍的な自由の法則にしたがって両立しうる、条件の総体である。

 

§C 法の普遍的原理

 「どのような行為も、その行為が、もしくはその行為の格率にしたがった各人の選択意志の自由が、万人の自由と普遍的法則にしたがって両立することができるならば、正しい」。

 それゆえ、私の行為あるいは概して私の状態が万人の自由と普遍的法則にしたがって両立しうる場合、私を妨害する人は私に不正を為すことになる。というのも、この妨害(抵抗)は【231】普遍的な法則にしたがった自由と両立しえないからである。

 それゆえまた、あらゆる格率のなかからこの原理を選んで今度は自分でそれを私の格率とすること、すなわち、私がそれを自分で私の行為の格率にすること、これは要求することができない。というのも、ある人の自由が私にとってまったくどうでもよいものであったとしても、私が心のなかでその人の自由を毀損したいと思っていたとしても、私が外的行為によってはその人の自由に損害を与えることがない限り、各人は自由でありえるからである。正しい振る舞いを自ら格率にするよう要求すること、これは倫理学が私に要求することである。

 したがって、「あなたの選択意志の自由な使用がすべての人の自由と普遍的法則にしたがって両立しうるよう、外的に行為せよ」という普遍的な法の法則は、たしかに私に拘束を課す法則ではあるが、拘束のためというまさにその理由で私が自分の自由を自ら法の法則が命じる条件へと制限すべきだということはまったく期待していないし、まして要求もしない。むしろ理性が告げるのはただ、私の自由はその理念においてこの条件へと制限されているし、他者からもまた実際に制限されうる、ということである。理性は自由をそれ以上証明できない要請としてみなすのである。徳を教えるためではなく、ただ何が正しいのかということを告げるためであるならば、法の法則を行為の動機として自ら表象する必要はないし、すべきではない。

 

§D 権利は強制する権能と結びついている

 何らかの行為の実行を妨害することに対置される抵抗は、この実行を促進するものであり、この実行と調和する。さて、普遍的法則にしたがった自由を妨害することはなんであれ不正である。ところで、強制は自由に対してなされる妨害や抵抗のことである。したがって、自由を何らかの仕方で使用すること自体が普遍的法則にしたがった自由の妨害となる(すなわち不正である)なら、この自由の使用に対置される強制は、自由の妨害の阻止として、普遍的法則にしたがった自由と調和する、すなわち正しい。それゆえ、法を毀損する人を強制する権能は、同時に、矛盾律にしたがって、法と結合している。【232】

 

§E 厳格法は、普遍的法則にしたがったすべての人の自由と調和する、全般的な相互強制の可能性としても表象されうる

 この命題が言わんとするのはこうである。法は二つの部分から構成されていると考えてはならない。つまり、法則にもとづく拘束と、自らの選択意志を通して他者を拘束し、他者を法則にもとづいた拘束へと強制する人の権能とから構成されていると考えてはならない。むしろ法は、普遍的な相互強制とすべての人の自由とを結びつける可能性において、直接捉えられるものである。すなわち、法というものが行為における外的なものだけを客体として扱うのと同様に、厳格法、つまり倫理的なものが混入していない法は、選択意志の規定根拠としてただ外的な規定根拠しか必要としないのである。というのも、そうでなければ厳格法は純粋ではなくなり、徳の指示と混ざり合ってしまうことになるからである。したがって、厳格法(狭義の法)だけが完全に外的な法と呼ぶことができる。確かに厳格法は法則によって拘束されているという各人の意識に基づいてはいるが、厳格法が純粋であるというのであれば、それは、選択意志を法則にしたがって規定するために、動機としてこの意識に依拠してはならないしできない。むしろそれゆえにこそ、厳格法は、すべての人の自由と普遍的法則にしたがって両立しうる外的な強制の可能性の原理に基づくのである。それゆえ例えば、債権者には債務者から借金の支払を求める権利があると言われるときがあるが、それは、債権者が債務者の心を動かして、理性が借金の支払へと自らを拘束しているという心持ちにさせることができる、という意味ではない。むしろ〔この場合に意味されているのは〕、すべての人に対して借金の支払をするよう強要する強制は、すべての人の自由と、それゆえまた債務者の自由とも、普遍的な外的法則にしたがって、両立するということである。それゆえ、権利と強制する権能が意味するところは同じである。

 普遍的な自由の原理のもとにおける、すべての人の自由と必然的に両立する相互強制という法則は、法概念のいわば構成である。すなわち、法概念をア・プリオリな純粋直観において描出することである。これは作用・反作用同等の法則のもとでの物体の自由運動の可能性との類比 による。【233】そこで、我々は純粋数学において、客体の性質を直接概念から導出するのではなく、ただ概念の構成を通して発見することができるのだが、これと同様に、法の概念ではなく、普遍的な法則のもとにあると考えられ、法と両立する、全般的で相互平等な強制によって、法の概念の描出が可能になるのである。ところで、この力学的概念の根底にはさらに純粋数学(例えば幾何学)における単なる形式的な概念があるのであるから、理性は、法概念の構成のために、悟性に対してまたア・プリオリな直観を可能なかぎり与えようとした。正しいもの(rectum)は、まっすぐなもののように、一方では曲がったものと、他方では斜めのものと対立する。前者について言えば、まっすぐなものは、二つの与えられた点のあいだに唯一引かれうる線の内的性質であり、後者について言えば、二つの互いに交差する線の唯一ありえる(垂直な)位置である。それは、一方よりも他方へと傾いているということがなく、また両側の空間が同等に分けられているという性質をもっている。このような類比によれば、法論もまた各人にその人のものを(数学的な精確さをもって)規定することを心得ていなければならない。これは、例外のための余地(latitudinem)を拒みきれない徳論では期待してはならないことである。しかし、倫理学の領域に侵入してはいないけれども、法的決定が要請されるにもかかわらずそれを決定する人を見つけることができないような、二つのケースが存在する。それらは言わばエピクロスの中間世界intermundiaに属しているかのようである。我々はこれらをまず、すぐ後で足を踏み入れることになる本来の法論の部分から分離しなければならない。それは、これらのケースにおける揺らぎのある原理が、法論の確固たる諸原則に影響を与えないようにするためである。