カント『法論』#7(法論への序論#2)

 

序文

道徳の形而上学への序論

法論の形而上学への序論
 §A 法論とは何か
 §B 法とは何か
 §C 法の普遍的原理
 §D 権利は強制する権能と結びついている
 §E 厳格法は、普遍的法則にしたがった…
 法論への序論の補足:両義的な権利(Ius aequivocum)
 法論の区分

道徳の形而上学一般の区別

 

第1部 私法:外的な私のもの・あなたのもの一般について

第2部 公法

 

法論への序論の補足:両義的な権利(Ius aequivocum)

 狭義の権利(ius strictum)はどんなものでも、強制する権能と結びついている。しかし、さらに【234】広義の権利(ius latum)も考えることができる。この場合、強制する権能は、いかなる法則によっても規定しえない。本当にそうか、そうであると言われているだけかはともかく、この権利は二つしかない。衡平と緊急権である。前者は強制なしの権利、後者は権利なしの強制だと見なされている。すぐに分かるだろうが、こうした両義性は本来、それを決断するためにいかなる裁判官も呼び出すことができないような、疑わしい権利の事例が存在することに由来するのである。

I. 衡平(Aequitas)

 (客観的に見られた)衡平は、単に他者の倫理的な義務(善意や親切)を要求する根拠であるだけでなく、この根拠によって何かを要求する人は自らの正しさに依拠している。しかし、どの程度、どのようにしてその人の要求を満たすことができるかを決めるための、裁判官にとって必要な諸条件が欠けているのである。〔例えば〕ある商業組合において他の参加者と同じ取り分に同意し、にもかかわらず他の参加者よりも多くの業績をなしたが、その際、まったく不運なことに他の参加者よりも多くを失ってしまった人がいるとしよう。この人は組合の衡平によって、他の参加者と同じ取り分以上のものを要求することができる。本来の(厳格な)権利の観点だけからすれば、このような事例において裁判官ならどう判断するか考えれば、契約にしたがえばどの程度のものが当人に与えられるかを決めるためのなんらの証文(data)もないのだから、裁判官は当人の要求を退けざるをえなくなるだろう。また、年の終わりまでの給料がその間に価値の低下した貨幣で使用人に支払われるという場合、それではこの使用人は契約を締結した際には得ることができていたはずのものを手に入れることができないので、契約時とは異なる額面ではあるが同じ価値の額をもらうために、それによって損害を被らないようにするという自分の権利に訴えることはできない。そうではなく、ただ衡平を根拠にすることができるだけである(無言の神の声は聞き取ることができない)。こうした事情に関して契約では取り決められていなかったのだから、裁判官は未規定の条件にしたがっては判決を下すことができないのである。

 またそれゆえに、(他者との権利をめぐる争いにおける)衡平の法廷は自己矛盾である。裁判官の固有の権利が関係している場合だけ、【235】そして裁判官が自らの人格のために処置しうるものについてのみ、裁判官は衡平を聞き入れてよいし、そうしなければならない。例えば、ある人が職務中に損害を被り、それを保障するよう王室に懇願しており、王室がその損害を自ら弁償する、という場合である。もちろん厳格法のもとでは、王室はこうした要求に対して、損害は自らの責任で引き受けるのものだという口実で、それを拒絶することもできるのだが。

 確かに、衡平の金言(dictum)によれば「厳格法は最大の不正である(summum ius summa iniuria)」。しかし、こうした悪は合法な方法では除去できない。たとえ権利の要求が関係している場合でもである。というのも、こうした要求は良心の法廷(天上の法廷forum poli)でのみ聞き入れられねばならず、それに対して、合法なものに関する問題は市民法(地上の法廷forum soli)に持ち込まれねばならないからである。

 

II. 緊急権(Ius necessitatis)

 この緊急の権利と思われているものは、私の生命が失われるという危機の状況にあって、私に危害を加えたわけではない他者から生命を奪う権能だと言われている。すぐに分かることだが、ここには法論の自己矛盾が間違いなく含まれている。――というのも、ここでは、私の生命に対して不当に攻撃を加える人がおり、私はその人の生命を奪うことによってその攻撃を未然に防ぐということ(正当防衛権ius inculpatae tutelae)が問題になっているわけではないからである。この〔正当防衛の〕場合は節度(moderamen)が推奨されるが、それは法ではなく倫理に属している。しかしここで問題になっているのは、私に対して何も暴行を加えていない人に対して暴行が許されうるということなのである。

 明らかに、こうした主張は法律が指定していることにしたがって客観的に理解されうるというものではなく、法廷でいかなる判決が下されようとも、単に主観的にしか理解されえないものである。つまるところ、船が難破し、二人が同じような生命の危険に晒されながら波間を漂っていたが、一方が片方がつかまっていた板を奪い取って助かろうとしたという場合、その人に対して死刑を宣告するような刑法は存在しえないのである。というのも、こうした法律が予め刑罰によって脅すとしても、その刑罰が板を奪いとった人の生命の損失よりも大きいということはありえないだろうからである。こうした刑法は意図した効果をまったく引き起こさないだろう。何らかの危害によって脅迫するとしても、その危害(法廷での死刑宣告)はいまだ不確実であり、確実な危害(溺死)を前にした恐怖を凌ぐことはないからである。したがって、暴力による自己保存の行為は、【236】罰に該当しないunsträflich(inculpabile)のではなく、単に罰しえないunstrafbar(impunibile)ものとして判断されなければならない。ところが、こうした主観的な無罪性を法学者たちは客観的な無罪性(適法性)として扱ってきたのであり、これは驚くべき混同である。

 緊急権の金言はこうである。「緊急にはいかなる法律もありえない(necessitas non habet legem)」。不正であることを適法的なものにするようないかなる緊急もありえないのに、こう言われてきたのだ。

 こうした二つの(衡平権と緊急権にもとづく)法的判断において、曖昧さ(aequivocatio)は、法の執行の際の主観的根拠と客観的根拠を(理性においてと法廷において)混同するというところから生じている、ということがわかるだろう。自らが十分な理由を持って正しいと考えたものが法廷では証明されず、また、自分でも不正だと判断せざるをえないものが同じ法廷で免除されうるのである。というのも、法の概念はこうした二つの事例において一義的な意味では理解されていないのである。