カント『法論』#8(法論への序論#3)

序文

道徳の形而上学への序論

法論の形而上学への序論
 §A 法論とは何か
 §B 法とは何か
 §C 法の普遍的原理
 §D 権利は強制する権能と結びついている
 §E 厳格法は、普遍的法則にしたがった…
 法論への序論の補足:両義的な権利(Ius aequivocum)
 法論の区分

道徳の形而上学一般の区別
 

第1部 私法:外的な私のもの・あなたのもの一般について

第2部 公法

 

法論の区分

A. 法義務の一般的区分

 この区分はウルピアヌス にしたがって非常にうまく行うことができる。ただし、彼は明確には考えてはいなかったかもしれないが、それでも彼の公式から発展させたりそこに読み取ったりすることが可能なかぎりで、その公式を解釈する必要がある。その公式とは次のようなものである。

1. 正しい人であれ(誠実に生きよhoneste vive)。

 法的な誠実さ(honestas iuridica)は次の点に存する。すなわち、他者との関係においてあなたの価値を人間の価値として主張すること。この義務は次の文によって表現される。「自らを他者の単なる手段にするのではなく、他者にとって同時に目的であるようにせよ」。この義務は以下では我々自身の人格における人間性の権利からの拘束性として説明される(正しさの法則Lex iusti)。

2. 誰に対しても不正を為すな(neiminem laede)。

 それによって他の人とのいっさいの結びつきから離れ、いっさいの交わりを遠ざけることになろうとも(法の法則Lex iuridica)。【237】

3. (後者〔交わり〕が避けられないのなら)他者とともに、各人が各人のものを享受することができる社会に入れ(各人に各人が得るべきものを与えよsuum cuique tribue)。

 この最後の公式は、「各人に各人のものを与えよ」と翻訳されるとすれば、辻褄が合わなくなるだろう。というのも、すでにその人が持っているものを与えることはできないからである。それゆえ、この公式が有意味であるとすれば、「各人が各人のものを他のすべての人に対して保障されうるような状態に入れ」ということにならなければならない(正義の法則Lex iustitiae)。したがって、上の三つの古典的公式は同時に、法義務の体系の区分の原理を含んでいる。すなわち、内的な法義務、外的な法義務、そして前者の原理から包摂を通して後者を導出することを含む義務である。

 

B. Rechtの一般的区分

 1. 体系的な学問としての法は、ア・プリオリな諸原理のみに基づく自然法と、立法者の意志に由来する実定(制定された)法に区分される。

 2. 他者を拘束する(道徳的)能力、すなわち他者に対する拘束性の法則的根拠(権原titulum)としての権利は、生得的権利と取得的権利に上位区分される。前者は、あらゆる法的な作用から独立し、すべての人に生まれつき認められる権利である。後者は、法的な行為を必要とする権利である。生得的な私のもの・あなたのものはまた、内的な私のもの・あなたのもの(meum vel tuum internum)と呼ばれる。というのも、外的な私のもの・あなたのものは常に取得されなければならないからである。

 

生得の権利は唯一のものである。

 自由(他者が強要する選択意志からの独立)は、他のすべての他者の自由と普遍的法則にしたがって両立しうる限りで、この唯一の根源的な権利、どんな人間に対してもその人間性のゆえに与えられる権利である。生得の平等、すなわち他者によって拘束されるとしても、互いに他者をも拘束しうるよりも多くを拘束されないという自立。それゆえに、【238】自分自身の主人(自権者sui iuris)であるという人間の資格、また同様に、法的な行為以前にはいかなる不正もなしてはいないのだから非難されない(正しいiusti)人間であるという資格。最後にまた、それ自体では他者のものを減らさないことを、他者が気にかけないかぎり、他者に対してなすという権能。言い換えれば、真実であろうが誤りであろうが、誠実であろうがなかろうが(veriloquium aut falsiloquium)、他者に対して単に自分の考えていることを伝えたり、何かを語ったり約束したりする権能(というのも、それを他者が信じようとするかどうかということは単に他者次第なのだから)*1。これらの権能はすべて、すでに生得的な自由の権利に含まれており、実際にそこから(より上位の権利概念のもとでの下位区分としては)区別されない。

 こうした区分を自然法の体系のなかに(生得的な自然権に関する限りで)導入した意図は次の点にある。ある取得された権利をめぐって争いが生じ、疑われている行為かあるいはそれがはっきりとしていれば疑われている権利について誰が挙証責任(onus probandi)を負うのかという問題が生じた場合、こうした拘束性を自分から拒否する人は、方法的にかつあたかも異なる権原に従っているかのようにして、(自らが置かれた様々な状況に応じて特殊化される)生得的な自由の権利に依拠することができる。

 生得的で、それゆえ内的な私のもの・あなたのものに関しては、複数の権利があるのではなくて、ただ唯一の権利があるだけである。それゆえこうした上位区分は、あたかも内容について極度に不均衡な二つの項からできているかのようだが、序論のなかに置いておき、法論の区分はたんに外的な私のもの・あなたのものに関して行うことができる。

 

*1:原注 単に軽率であっただけだとしても意図的に真実でないことを言うということは、確かに虚言(mendacium)と呼ばれる習わしとなっている。それは、真実でないことを純粋に触れ回る人が騙されやすい人として他者にとって嘲弄の的となるという限りで、少なくとも損害をもたらしうるからである。しかし、法的な意味では、直接他者の権利を毀損するような真実でないことだけが虚言と呼ばれる必要がある。例えば、他者と契約を結ぶ際に偽った申し立てを行い、他者のものを奪おうとする(詐欺falsiloquium dolosum)ことである。非常によく似た概念をこのように区別することは、理由がないわけではない。というのは、自らの考えたことを単に説明しただけでは、それを積極的に受け入れるかどうかは常に他者の自由に任せられているからである。この人の話は誰も信じないという中傷がなされるとすれば、それはこの人は嘘つきであるという非難と紙一重であり、ここでは法論に属しているものが倫理に帰されるものからまったく同様に区別することができる境界線があるだけである。