カント『法論』#8(法論への序論#3)

序文

道徳の形而上学への序論

法論の形而上学への序論
 §A 法論とは何か
 §B 法とは何か
 §C 法の普遍的原理
 §D 権利は強制する権能と結びついている
 §E 厳格法は、普遍的法則にしたがった…
 法論への序論の補足:両義的な権利(Ius aequivocum)
 法論の区分

道徳の形而上学一般の区別
 

第1部 私法:外的な私のもの・あなたのもの一般について

第2部 公法

 

法論の区分

A. 法義務の一般的区分

 この区分はウルピアヌス にしたがって非常にうまく行うことができる。ただし、彼は明確には考えてはいなかったかもしれないが、それでも彼の公式から発展させたりそこに読み取ったりすることが可能なかぎりで、その公式を解釈する必要がある。その公式とは次のようなものである。

1. 正しい人であれ(誠実に生きよhoneste vive)。

 法的な誠実さ(honestas iuridica)は次の点に存する。すなわち、他者との関係においてあなたの価値を人間の価値として主張すること。この義務は次の文によって表現される。「自らを他者の単なる手段にするのではなく、他者にとって同時に目的であるようにせよ」。この義務は以下では我々自身の人格における人間性の権利からの拘束性として説明される(正しさの法則Lex iusti)。

2. 誰に対しても不正を為すな(neiminem laede)。

 それによって他の人とのいっさいの結びつきから離れ、いっさいの交わりを遠ざけることになろうとも(法の法則Lex iuridica)。【237】

3. (後者〔交わり〕が避けられないのなら)他者とともに、各人が各人のものを享受することができる社会に入れ(各人に各人が得るべきものを与えよsuum cuique tribue)。

 この最後の公式は、「各人に各人のものを与えよ」と翻訳されるとすれば、辻褄が合わなくなるだろう。というのも、すでにその人が持っているものを与えることはできないからである。それゆえ、この公式が有意味であるとすれば、「各人が各人のものを他のすべての人に対して保障されうるような状態に入れ」ということにならなければならない(正義の法則Lex iustitiae)。したがって、上の三つの古典的公式は同時に、法義務の体系の区分の原理を含んでいる。すなわち、内的な法義務、外的な法義務、そして前者の原理から包摂を通して後者を導出することを含む義務である。

 

B. Rechtの一般的区分

 1. 体系的な学問としての法は、ア・プリオリな諸原理のみに基づく自然法と、立法者の意志に由来する実定(制定された)法に区分される。

 2. 他者を拘束する(道徳的)能力、すなわち他者に対する拘束性の法則的根拠(権原titulum)としての権利は、生得的権利と取得的権利に上位区分される。前者は、あらゆる法的な作用から独立し、すべての人に生まれつき認められる権利である。後者は、法的な行為を必要とする権利である。生得的な私のもの・あなたのものはまた、内的な私のもの・あなたのもの(meum vel tuum internum)と呼ばれる。というのも、外的な私のもの・あなたのものは常に取得されなければならないからである。

 

生得の権利は唯一のものである。

 自由(他者が強要する選択意志からの独立)は、他のすべての他者の自由と普遍的法則にしたがって両立しうる限りで、この唯一の根源的な権利、どんな人間に対してもその人間性のゆえに与えられる権利である。生得の平等、すなわち他者によって拘束されるとしても、互いに他者をも拘束しうるよりも多くを拘束されないという自立。それゆえに、【238】自分自身の主人(自権者sui iuris)であるという人間の資格、また同様に、法的な行為以前にはいかなる不正もなしてはいないのだから非難されない(正しいiusti)人間であるという資格。最後にまた、それ自体では他者のものを減らさないことを、他者が気にかけないかぎり、他者に対してなすという権能。言い換えれば、真実であろうが誤りであろうが、誠実であろうがなかろうが(veriloquium aut falsiloquium)、他者に対して単に自分の考えていることを伝えたり、何かを語ったり約束したりする権能(というのも、それを他者が信じようとするかどうかということは単に他者次第なのだから)*1。これらの権能はすべて、すでに生得的な自由の権利に含まれており、実際にそこから(より上位の権利概念のもとでの下位区分としては)区別されない。

 こうした区分を自然法の体系のなかに(生得的な自然権に関する限りで)導入した意図は次の点にある。ある取得された権利をめぐって争いが生じ、疑われている行為かあるいはそれがはっきりとしていれば疑われている権利について誰が挙証責任(onus probandi)を負うのかという問題が生じた場合、こうした拘束性を自分から拒否する人は、方法的にかつあたかも異なる権原に従っているかのようにして、(自らが置かれた様々な状況に応じて特殊化される)生得的な自由の権利に依拠することができる。

 生得的で、それゆえ内的な私のもの・あなたのものに関しては、複数の権利があるのではなくて、ただ唯一の権利があるだけである。それゆえこうした上位区分は、あたかも内容について極度に不均衡な二つの項からできているかのようだが、序論のなかに置いておき、法論の区分はたんに外的な私のもの・あなたのものに関して行うことができる。

 

*1:原注 単に軽率であっただけだとしても意図的に真実でないことを言うということは、確かに虚言(mendacium)と呼ばれる習わしとなっている。それは、真実でないことを純粋に触れ回る人が騙されやすい人として他者にとって嘲弄の的となるという限りで、少なくとも損害をもたらしうるからである。しかし、法的な意味では、直接他者の権利を毀損するような真実でないことだけが虚言と呼ばれる必要がある。例えば、他者と契約を結ぶ際に偽った申し立てを行い、他者のものを奪おうとする(詐欺falsiloquium dolosum)ことである。非常によく似た概念をこのように区別することは、理由がないわけではない。というのは、自らの考えたことを単に説明しただけでは、それを積極的に受け入れるかどうかは常に他者の自由に任せられているからである。この人の話は誰も信じないという中傷がなされるとすれば、それはこの人は嘘つきであるという非難と紙一重であり、ここでは法論に属しているものが倫理に帰されるものからまったく同様に区別することができる境界線があるだけである。

カント『法論』#7(法論への序論#2)

 

序文

道徳の形而上学への序論

法論の形而上学への序論
 §A 法論とは何か
 §B 法とは何か
 §C 法の普遍的原理
 §D 権利は強制する権能と結びついている
 §E 厳格法は、普遍的法則にしたがった…
 法論への序論の補足:両義的な権利(Ius aequivocum)
 法論の区分

道徳の形而上学一般の区別

 

第1部 私法:外的な私のもの・あなたのもの一般について

第2部 公法

 

法論への序論の補足:両義的な権利(Ius aequivocum)

 狭義の権利(ius strictum)はどんなものでも、強制する権能と結びついている。しかし、さらに【234】広義の権利(ius latum)も考えることができる。この場合、強制する権能は、いかなる法則によっても規定しえない。本当にそうか、そうであると言われているだけかはともかく、この権利は二つしかない。衡平と緊急権である。前者は強制なしの権利、後者は権利なしの強制だと見なされている。すぐに分かるだろうが、こうした両義性は本来、それを決断するためにいかなる裁判官も呼び出すことができないような、疑わしい権利の事例が存在することに由来するのである。

I. 衡平(Aequitas)

 (客観的に見られた)衡平は、単に他者の倫理的な義務(善意や親切)を要求する根拠であるだけでなく、この根拠によって何かを要求する人は自らの正しさに依拠している。しかし、どの程度、どのようにしてその人の要求を満たすことができるかを決めるための、裁判官にとって必要な諸条件が欠けているのである。〔例えば〕ある商業組合において他の参加者と同じ取り分に同意し、にもかかわらず他の参加者よりも多くの業績をなしたが、その際、まったく不運なことに他の参加者よりも多くを失ってしまった人がいるとしよう。この人は組合の衡平によって、他の参加者と同じ取り分以上のものを要求することができる。本来の(厳格な)権利の観点だけからすれば、このような事例において裁判官ならどう判断するか考えれば、契約にしたがえばどの程度のものが当人に与えられるかを決めるためのなんらの証文(data)もないのだから、裁判官は当人の要求を退けざるをえなくなるだろう。また、年の終わりまでの給料がその間に価値の低下した貨幣で使用人に支払われるという場合、それではこの使用人は契約を締結した際には得ることができていたはずのものを手に入れることができないので、契約時とは異なる額面ではあるが同じ価値の額をもらうために、それによって損害を被らないようにするという自分の権利に訴えることはできない。そうではなく、ただ衡平を根拠にすることができるだけである(無言の神の声は聞き取ることができない)。こうした事情に関して契約では取り決められていなかったのだから、裁判官は未規定の条件にしたがっては判決を下すことができないのである。

 またそれゆえに、(他者との権利をめぐる争いにおける)衡平の法廷は自己矛盾である。裁判官の固有の権利が関係している場合だけ、【235】そして裁判官が自らの人格のために処置しうるものについてのみ、裁判官は衡平を聞き入れてよいし、そうしなければならない。例えば、ある人が職務中に損害を被り、それを保障するよう王室に懇願しており、王室がその損害を自ら弁償する、という場合である。もちろん厳格法のもとでは、王室はこうした要求に対して、損害は自らの責任で引き受けるのものだという口実で、それを拒絶することもできるのだが。

 確かに、衡平の金言(dictum)によれば「厳格法は最大の不正である(summum ius summa iniuria)」。しかし、こうした悪は合法な方法では除去できない。たとえ権利の要求が関係している場合でもである。というのも、こうした要求は良心の法廷(天上の法廷forum poli)でのみ聞き入れられねばならず、それに対して、合法なものに関する問題は市民法(地上の法廷forum soli)に持ち込まれねばならないからである。

 

II. 緊急権(Ius necessitatis)

 この緊急の権利と思われているものは、私の生命が失われるという危機の状況にあって、私に危害を加えたわけではない他者から生命を奪う権能だと言われている。すぐに分かることだが、ここには法論の自己矛盾が間違いなく含まれている。――というのも、ここでは、私の生命に対して不当に攻撃を加える人がおり、私はその人の生命を奪うことによってその攻撃を未然に防ぐということ(正当防衛権ius inculpatae tutelae)が問題になっているわけではないからである。この〔正当防衛の〕場合は節度(moderamen)が推奨されるが、それは法ではなく倫理に属している。しかしここで問題になっているのは、私に対して何も暴行を加えていない人に対して暴行が許されうるということなのである。

 明らかに、こうした主張は法律が指定していることにしたがって客観的に理解されうるというものではなく、法廷でいかなる判決が下されようとも、単に主観的にしか理解されえないものである。つまるところ、船が難破し、二人が同じような生命の危険に晒されながら波間を漂っていたが、一方が片方がつかまっていた板を奪い取って助かろうとしたという場合、その人に対して死刑を宣告するような刑法は存在しえないのである。というのも、こうした法律が予め刑罰によって脅すとしても、その刑罰が板を奪いとった人の生命の損失よりも大きいということはありえないだろうからである。こうした刑法は意図した効果をまったく引き起こさないだろう。何らかの危害によって脅迫するとしても、その危害(法廷での死刑宣告)はいまだ不確実であり、確実な危害(溺死)を前にした恐怖を凌ぐことはないからである。したがって、暴力による自己保存の行為は、【236】罰に該当しないunsträflich(inculpabile)のではなく、単に罰しえないunstrafbar(impunibile)ものとして判断されなければならない。ところが、こうした主観的な無罪性を法学者たちは客観的な無罪性(適法性)として扱ってきたのであり、これは驚くべき混同である。

 緊急権の金言はこうである。「緊急にはいかなる法律もありえない(necessitas non habet legem)」。不正であることを適法的なものにするようないかなる緊急もありえないのに、こう言われてきたのだ。

 こうした二つの(衡平権と緊急権にもとづく)法的判断において、曖昧さ(aequivocatio)は、法の執行の際の主観的根拠と客観的根拠を(理性においてと法廷において)混同するというところから生じている、ということがわかるだろう。自らが十分な理由を持って正しいと考えたものが法廷では証明されず、また、自分でも不正だと判断せざるをえないものが同じ法廷で免除されうるのである。というのも、法の概念はこうした二つの事例において一義的な意味では理解されていないのである。

カント『法論』#6(法論への序論#1)

目次

序文

道徳の形而上学への序論

法論の形而上学への序論
 §A 法論とは何か
 §B 法とは何か
 §C 法の普遍的原理
 §D 権利は強制する権能と結びついている
 §E 厳格法は、普遍的法則にしたがった…
 法論への序論の補足:両義的な権利(Ius aequivocum)
 法論の区分

道徳の形而上学一般の区別


第1部 私法:外的な私のもの・あなたのもの一般について

第2部 公法

法論の形而上学への序論

§A 法論とは何か

 【229】外的立法が可能な法則の総体は、法論(Ius)と呼ばれる。こうした立法が実際になされたものであれば、法論は実定法論である。法曹あるいは法学者(Iurisconsultus)は、法に通暁している(Iurisperitus)と言われるが、それは外的法則を外的にも知っている、つまり法律を経験において生じる事例に適用することを知っているためである。法律の適用もまた法学識(Iurisprudentia)となりうる。他方、両者〔実定法と法則の適用〕を除いても、法哲学(Iurisscientia)が残る。この名称は自然法論(Ius naturae)の体系的な知にふさわしい。ただし、法曹も法哲学から実定的な立法のための揺るぎない原理を引き出すことができる。

 

§B 法とは何か

 この問いを前にして、トートロジーに陥ったり、あるいは一般的な解決の代わりに、いつかどこかの土地で法律が意図しているものだと答えたりしないようにするとすれば、法学者は困惑してしまうだろう。それは「真理とは何か」というよく引き合いに出される問題を前にした論理学者と同じである。合法なものRechtensは何か(quid sit iuris)、つまり、ある特定の時間と場所で法律が何を言明しているか・言明したかということについてなら、法学者はうまく答えることができる。しかし、法律が意図していることが正しいのかどうか、また一般に正・不正recht oder unrecht(iustum et iniustum)を区別する普遍的な基準については、法学者には隠されたままである。【230】これを理解するためには、一旦〔実定法実務の〕経験的な諸原理を離れ、判断の源泉を理性のみに求め(そのためには実定法がとりわけ導きの糸となりうるだろう)、可能な実定法の立法の基礎に到達しなければならない。単に経験的な法論は(ファエドルスの寓話に出てくる木偶の頭のように)、美しいかもしれないが、残念ながら(!)脳みそが空っぽの頭である。

 法の概念は、それに対応する拘束(拘束の道徳的概念 )について言えば、第一に、行為が事実Faktumとして互いに(直接的・間接的に)影響を与え合う可能性のある、一人格と他の人格の単に外的で実践的な関係に該当する。しかし第二に、それは善意や無情の行為におけるように、他者の願望に対する選択意志の関係ではなく(したがって単なる欲求に対する選択意志の関係ではなく)、ただ他者の選択意志に対する選択意志の関係を意味している。第三に、こうした選択意志相互の関係において、選択意志の質料、すなわち各人が欲する客体について意図している目的はまったく考察されない。例えば、誰かが自分の取引の際に私から買った商品に利益を見出すかどうかということは問われない。そうではなく、ただ自由だとみなされるかぎりでの双方の選択意志の関係における形式の観点から考察され、そして〔先の売買の例で言えば〕二人のうち一方の行為が他方の自由と普遍的法則にしたがって一致しうるかということだけが問われるのである。

 それゆえ法は、そのもとで一方の選択意志が他方の選択意志と普遍的な自由の法則にしたがって両立しうる、条件の総体である。

 

§C 法の普遍的原理

 「どのような行為も、その行為が、もしくはその行為の格率にしたがった各人の選択意志の自由が、万人の自由と普遍的法則にしたがって両立することができるならば、正しい」。

 それゆえ、私の行為あるいは概して私の状態が万人の自由と普遍的法則にしたがって両立しうる場合、私を妨害する人は私に不正を為すことになる。というのも、この妨害(抵抗)は【231】普遍的な法則にしたがった自由と両立しえないからである。

 それゆえまた、あらゆる格率のなかからこの原理を選んで今度は自分でそれを私の格率とすること、すなわち、私がそれを自分で私の行為の格率にすること、これは要求することができない。というのも、ある人の自由が私にとってまったくどうでもよいものであったとしても、私が心のなかでその人の自由を毀損したいと思っていたとしても、私が外的行為によってはその人の自由に損害を与えることがない限り、各人は自由でありえるからである。正しい振る舞いを自ら格率にするよう要求すること、これは倫理学が私に要求することである。

 したがって、「あなたの選択意志の自由な使用がすべての人の自由と普遍的法則にしたがって両立しうるよう、外的に行為せよ」という普遍的な法の法則は、たしかに私に拘束を課す法則ではあるが、拘束のためというまさにその理由で私が自分の自由を自ら法の法則が命じる条件へと制限すべきだということはまったく期待していないし、まして要求もしない。むしろ理性が告げるのはただ、私の自由はその理念においてこの条件へと制限されているし、他者からもまた実際に制限されうる、ということである。理性は自由をそれ以上証明できない要請としてみなすのである。徳を教えるためではなく、ただ何が正しいのかということを告げるためであるならば、法の法則を行為の動機として自ら表象する必要はないし、すべきではない。

 

§D 権利は強制する権能と結びついている

 何らかの行為の実行を妨害することに対置される抵抗は、この実行を促進するものであり、この実行と調和する。さて、普遍的法則にしたがった自由を妨害することはなんであれ不正である。ところで、強制は自由に対してなされる妨害や抵抗のことである。したがって、自由を何らかの仕方で使用すること自体が普遍的法則にしたがった自由の妨害となる(すなわち不正である)なら、この自由の使用に対置される強制は、自由の妨害の阻止として、普遍的法則にしたがった自由と調和する、すなわち正しい。それゆえ、法を毀損する人を強制する権能は、同時に、矛盾律にしたがって、法と結合している。【232】

 

§E 厳格法は、普遍的法則にしたがったすべての人の自由と調和する、全般的な相互強制の可能性としても表象されうる

 この命題が言わんとするのはこうである。法は二つの部分から構成されていると考えてはならない。つまり、法則にもとづく拘束と、自らの選択意志を通して他者を拘束し、他者を法則にもとづいた拘束へと強制する人の権能とから構成されていると考えてはならない。むしろ法は、普遍的な相互強制とすべての人の自由とを結びつける可能性において、直接捉えられるものである。すなわち、法というものが行為における外的なものだけを客体として扱うのと同様に、厳格法、つまり倫理的なものが混入していない法は、選択意志の規定根拠としてただ外的な規定根拠しか必要としないのである。というのも、そうでなければ厳格法は純粋ではなくなり、徳の指示と混ざり合ってしまうことになるからである。したがって、厳格法(狭義の法)だけが完全に外的な法と呼ぶことができる。確かに厳格法は法則によって拘束されているという各人の意識に基づいてはいるが、厳格法が純粋であるというのであれば、それは、選択意志を法則にしたがって規定するために、動機としてこの意識に依拠してはならないしできない。むしろそれゆえにこそ、厳格法は、すべての人の自由と普遍的法則にしたがって両立しうる外的な強制の可能性の原理に基づくのである。それゆえ例えば、債権者には債務者から借金の支払を求める権利があると言われるときがあるが、それは、債権者が債務者の心を動かして、理性が借金の支払へと自らを拘束しているという心持ちにさせることができる、という意味ではない。むしろ〔この場合に意味されているのは〕、すべての人に対して借金の支払をするよう強要する強制は、すべての人の自由と、それゆえまた債務者の自由とも、普遍的な外的法則にしたがって、両立するということである。それゆえ、権利と強制する権能が意味するところは同じである。

 普遍的な自由の原理のもとにおける、すべての人の自由と必然的に両立する相互強制という法則は、法概念のいわば構成である。すなわち、法概念をア・プリオリな純粋直観において描出することである。これは作用・反作用同等の法則のもとでの物体の自由運動の可能性との類比 による。【233】そこで、我々は純粋数学において、客体の性質を直接概念から導出するのではなく、ただ概念の構成を通して発見することができるのだが、これと同様に、法の概念ではなく、普遍的な法則のもとにあると考えられ、法と両立する、全般的で相互平等な強制によって、法の概念の描出が可能になるのである。ところで、この力学的概念の根底にはさらに純粋数学(例えば幾何学)における単なる形式的な概念があるのであるから、理性は、法概念の構成のために、悟性に対してまたア・プリオリな直観を可能なかぎり与えようとした。正しいもの(rectum)は、まっすぐなもののように、一方では曲がったものと、他方では斜めのものと対立する。前者について言えば、まっすぐなものは、二つの与えられた点のあいだに唯一引かれうる線の内的性質であり、後者について言えば、二つの互いに交差する線の唯一ありえる(垂直な)位置である。それは、一方よりも他方へと傾いているということがなく、また両側の空間が同等に分けられているという性質をもっている。このような類比によれば、法論もまた各人にその人のものを(数学的な精確さをもって)規定することを心得ていなければならない。これは、例外のための余地(latitudinem)を拒みきれない徳論では期待してはならないことである。しかし、倫理学の領域に侵入してはいないけれども、法的決定が要請されるにもかかわらずそれを決定する人を見つけることができないような、二つのケースが存在する。それらは言わばエピクロスの中間世界intermundiaに属しているかのようである。我々はこれらをまず、すぐ後で足を踏み入れることになる本来の法論の部分から分離しなければならない。それは、これらのケースにおける揺らぎのある原理が、法論の確固たる諸原則に影響を与えないようにするためである。

カント『法論』#5(道徳の形而上学への序論#3)

道徳の形而上学への序論

道徳の形而上学への序論
 1.人間の心の能力と道徳法則の関係について
 2.道徳の形而上学の理念と必然性について
 3.道徳の形而上学の区分について
 4.道徳の形而上学への予備概念

第4節は本来第3節の前に挿入されるべきであったのではないかということが指摘されている(B. Ludwig)。実際、第3節を読む前にこちらを読んだほうが論理的に自然であるように思われる。また、この節自体の論述順序にも相当な不自然さがあるが、とりあえずそのまま訳出している。

4.道徳の形而上学(普遍的実践哲学philosophia practica universalis)への予備概念【221】

 自由の概念は純粋な理性概念であり、まさにそれゆえ理論哲学にとって超越したもの、すなわち何らかの可能な経験のうちにふさわしい実例が与えられるようなことのない概念である。したがってそれは、我々に可能な理論的認識の対象を構成するものではなく、思弁理性の構成的原理ではありえず、ただ統制的でしかもただ単に消極的原理としてみなされなければならない。しかし、理性を実践的に使用するにあたっては、自由の概念は自らの実在性を実践的原則を通じて証明するのである。実践的原則は、法則として、つまりあらゆる経験的条件(感性的なもの一般)に依存しない純粋理性の因果性として、選択意志を規定し、我々の内なる純粋意志を証明する。純粋意志のうちに、道徳的概念と法則は自らの根源を持つからである 。

 このような(実践的観点における)自由の積極的概念にこそ、道徳的と呼ばれる無条件的な実践的法則がもとづいているのだ。選択意志が感性的に触発され、それゆえにそれ自体では純粋意志と適合しないどころかしばしばそれに抵抗しさえする我々にとって、この法則は命法(命令あるいは禁止)であり、しかも定言的(無条件の)命法である。この点で実践法則は、常に条件的にしか命じることのない技巧的命法(技術の指示)からは区別される。実践法則を基準として、何らかの行為が許容されるか許容されないか、すなわち道徳的に可能か不可能かということになり、またある種の行為かその行為の反対が道徳的に必然、すなわち拘束的だということになる。こうしたところから、拘束的とされた行為に対して義務の概念が生じる。義務を遵守したり義務に違反したりすることは、確かに何らかの仕方で(道徳感情のあり方において)快・不快と結びついてはいるが、それについて理性の実践法則は一切考慮しないのである(というのも、快・不快は実践法則の根拠ではなく、ただそれによって我々の選択意志が規定される場合に心のなかで主観的に作用しているものにだけ妥当するからであり、(実践法則の妥当性や影響力に対して、客観的に、つまり理性の判断において、何かを付け加えたり奪い取ったりすることなく)主体の多様性に応じて異なりうるものなのだから)。

 【222】以下の諸概念は、道徳の形而上学の〔法論・徳論という〕両方の部分に共通のものである。

 拘束は、理性の定言命法のもとでの、自由な行為の必然性である。

 命法とは実践的規則であり、それによってそれ自体では偶然的な行為が必然的なものになる。命法が実践法則から区別されるのは、次の点に関してである。実践法則は確かに、ある行為が必然的になされねばならないことを表象するが、このことがそれ自体ですでに行為する主体にとって(例えばなんらかの神聖な存在者のように)必然のものとして内属しているのか、それとも(例えば人間のように)偶然的なものだったのか、ということは考慮しない。というのも、前者の場合であれば、いかなる命法も存在しないからである。したがって、命法は、規則として表象されることで、主体にとって偶然的な行為を必然的なものにするのであり、主体はこの規則との一致を強要されなければならない(余儀なくされる)ものとして表象される。定言的(無条件の)命法は、何か間接的な仕方でではなく、つまり行為を通じて達成される目的を表象することによってではなく、行為自体(その形式)をただ表象することによって、したがって客観的に必然なものとして直接的にその行為を思考し、必然的なものとする。命法は(道徳的な)拘束を規定する唯一の実践的教説として、この行為を実例として持ち出すことができる。その他の一切の命法は技巧的であり、総じて条件付けられたものである。他方、定言命法の可能性の根拠は、次の点にある。定言命法は、ただ選択意志の規定(これによって選択意志に意図を与えることができる)に関して、選択意志の自由にしか関係しない。

 許容されている(licitum)のは、拘束に反しない行為である。そして、反対の命法に制限されていないこの自由が、権能(道徳的能力facultas moralis)と呼ばれる。ここから自ずと明らかになるのは、何が許容されていないか(illicitum)ということである。

 義務は、人がそれへと結び付けられている行為である。それはしたがって拘束の質料であり、我々は色々な仕方でそれに結び付けられうるが、(行為としては)義務は同じものである。

 定言命法は、ある行為に関する拘束を言明するのだから、道徳-実践的な法則である。【223】しかし拘束は単に(法則というもの一般が言明する)実践的必然性だけでなく強要をも含んでいるので、考えられている〔定言〕命法は命令の法則か禁止の法則のいずれかであり、それに応じて作為か不作為が義務として表象される。命令されても禁止されてもいない行為は、単に許容されている。なぜならそれに関しては自由(権能)を制限する法則はなく、したがってどんな義務も存在しないからである。こうした行為は道徳的にどうでもよい(どうでもよいことindifferens、adiaphoron、単なる能力の事柄res merae facultatis)と呼ばれる。問題になるのは、このような行為が存在するのか、存在するとすれば、任意に何かをしたりしなかったりすることが任されていると言えるためには、命令法則(lex praeceptiva, lex mandati)と禁止法則(lex prohibitiva, lex vetiti)以外にさらに許容法則(lex permissiva)が必要なのかどうか、ということである 。もし許容法則が必要なら、権能は、それ自体でどうでもよい行為(adiaphoron)には関わらないだろう。というのも、そうした行為が存在したとして、それを道徳法則から考えた場合、そうした行為に対してはいかなる特殊な法則も必要がなくなってしまうだろうからである。

 ある行動が行為と呼ばれるのは、それが拘束の法則のもとにあるかぎり、したがって主体が自らの選択意志の自由にしたがって行動しているとみなされるかぎりでのことである。行動する者はこうした〔選択意志の自由による〕働きを通してその帰結の創始者とみなされ、この帰結とその行動はともども行動する者に帰されうるが、それはその行為や帰結を拘束することになる法則があらかじめ知られている場合である。

 人格とは、その行為に責任を帰することが可能である主体である。したがって精神的人格性とは、道徳法則のもとでの理性的存在者の自由にほかならない(これに対して、心理学的人格は、自分の存在が様々な状態にあっても同一であるということを意識する能力にすぎない)。したがって、人格は、自らが(独りでか、あるいは少なくとも同時に他の人格と)自らに与えた法則以外のものには服さない。

 物件は、決して帰責することができない物である。自由な選択意志のいかなる客体も、それ自体では自由を欠いているのなら、物件(有体物res corporalis)と呼ばれる。
行為が一般に正しい・正しくない(rectum aut minus rectum)と言われるのは、それが義務に適っているか義務に反している(許容されているか許容されていない行為factum lictum aut illicitum)ためである。【224】義務自体は、内容か起源に応じて、どのような種類かが決まる。義務に反した行為は、違反(reatus)と呼ばれる。

 故意ではない違反も確かに帰責されうるが、それは過失(cupla)と呼ばれる。故意の(つまり、違反であるという意識と結びついた)違反は、罪悪(dolus)と呼ばれる。外的な法則にしたがって正しいことは正当(iustum)、そうでなければ不正(iniustum)と呼ばれる。

 義務同士の衝突(義務同士のあるいは拘束同士の衝突collisio officiorum s. obligationum)があるとすれば、一方の義務が他方の義務を(すべてか部分的にか)廃棄してしまうような義務同士の関係性だということになるだろう。しかし、義務と拘束は一般に、ある行為が客観的・実践的に必然であるということを表現する概念であり、また二つの互いに対立する規則は同時には必然的ではありえず、ある規則にしたがって行為することが義務であれば、それに対立する規則にしたがって行為することは義務でさえなくむしろ義務に反していさえする。それだから、義務や拘束の衝突は考えることができない(拘束同士は衝突しないobligationes non colliduntur)。ところが、拘束の二つの根拠(rationes obligandi)は、一方あるいは他方の根拠が義務付けのためには十分ではない(拘束の根拠によって拘束されないrationes obligandi non obligantes)ということがあり、それらの根拠が主体やそれを命じる規則において、結合しているということがある。その場合は、一方は義務ではないのである。こうした二つの根拠が互いに矛盾している場合であっても、実践哲学においては、より強い拘束が優先する(fortior obligation vincit)とは言わず、より強い義務付け根拠が座を占める(fortior obligandi ratio vincit)と言うのである。

 一般に、外的な立法が可能な拘束的な法則は外的法則(leges externae)と呼ばれる。外的法則のなかには、外的立法がなくともその法則に対する拘束が理性によってア・プリオリに認識されうるものもある。それは外的法則ではあるが、自然法である。これに対して、実際に外的立法がなければまったく拘束力を持たない(したがって、外的立法なしには法則ではない)ものもあるが、それは実定法と呼ばれる。したがって、単に実定法しか含まない外的立法も考えられる。しかしこの場合、そうは言ってもその立法に対して自然法が先行していなければならないだろう。自然法が先行していることで、立法者の権威(つまり、自分の恣意のみによって他人を拘束する権能)が確立されるからである。

 【225】ある行為を義務にする原則は、実践的法則である。行為者が自分で主観的な理由から原理とするような規則は、格率と呼ばれる。したがって、同じような法則のもとにおいても、行為者の格率は非常に異なりうることがある。

 どんな行為が拘束的であるのかだけを言明する定言命法は、一般に、「同時に普遍的法則として妥当しうる格率にしたがって行為せよ」というものである。それゆえ、まずは自分の主観的な原則にしたがって自分の行為を考察しなければならない。しかし、この〔主観的〕原則がまた客観的にも妥当するかどうかということは、ただ次の点からしか分からない。つまり、自分の理性によって、この原則にしたがえば自分を同時に普遍的立法者としてみなすことができるかどうか吟味し、それによって原則がこうした普遍的な立法の資格を与えられる、という場合だけである。

 こうした法則が、そこから帰結しうることが非常に多様であるということと比べて、単純であるということ、また同様に、命令しておきながらそこにはいかなる動機も明白に伴ってはいないということ、これらは確かに最初は当惑させるものに違いない。しかし、我々の理性の能力にこのように驚嘆しつつも、実践法則が持つ普遍性の資格をある格率に与えるという単なる理念によって、次のことが分かる。選択意志の性質はまさにこうした実践法則(道徳法則)によって明らかになるのであり、思弁理性はア・プリオリな根拠からも何らかの経験によってもそこへは到達できなかったし、もし到達したとしても、実践法則の可能性は理論的には何によっても明らかにはならなかっただろう。他方で、実践法則だけが選択意志のこのような性質、つまり自由を一貫して明らかにするのである。そうだとすれば、この法則が数学における要請と同様に不可知でありながら、にもかかわらず論証上必然的であるということ、しかし同時に実践的認識の全領野が眼前に広がっているということ、これらのことはそれほど当惑を与えるものではなくなるだろう。実践的認識の領野において、理性は自由の理念によって、そして理論哲学における超感性的な理性の他の諸理念〔神、魂の不死〕によって、すべてのもの〔経験的認識〕がまさに自らの前から締め出されていることを気づかざるをえないのである。ある行為が義務の法則と一致しているということが行為の適法性(legalitas)であり、他方、行為の格率が法則と一致しているということは行為の道徳性(moralitas)である。しかし格率は、行為の主観的原理であり、それは主体自らが規則にしたものである(主体がどのように行為したいか)。それに対して、義務の原則は、まさに主体に対して理性が、それゆえ客観的に命じるものである(主体がどのように行為すべきか)。

 【226】したがって倫理学の最高の原則は、「同時に普遍的法則として妥当しうる格率にしたがって行為せよ」というものなのである。普遍的法則の資格を持たないどんな格率も道徳に反している。

 意志から法則が生じ、選択意志から格率が生じる。後者は、人間においては自由な選択意志である。意志は、ただ法則にのみ関係し、自由とも自由でないともいうことはできない。というのも、意志は行為ではなく、行為の格率のための立法(したがって実践理性そのもの)に直接関係し、それゆえまた必然的にいかなる強要も可能ではないからである。つまり、選択意志だけが自由と呼ばれるのである。

 しかし、選択意志の自由といっても――これまで試みられることがあったように――、法則に則って行為するかあるいは法則に反して行為するかのいずれかを選択する能力(無差別の自由libertas indifferentiae) としては、定義できない。現象としての選択意志が経験において、こうした無差別の自由の実例を提供することがたびたびあるとしても、である。というのも、自由(道徳法則を通してはじめて我々に知られることになる)は、我々のうちにある消極的な性質、つまりいかなる感性的な規定根拠によっても行為へと強要されることはないという性質として知られるからである。しかし、叡智的存在者として見れば、つまりただ知性としての人間の能力から見れば、知性が感性的な選択意志に関して強要するということになり、それゆえこうした積極的な性状からすれば、我々は自由を理論的にはまったく証明できない。ただ我々は次のことをよく分かってはいるのである。つまり、感性的存在者としての人間は、経験によれば、単に法則に適合するようにではなく法則に反するようにも選択するという能力を示しているのだが、これによっては叡智的存在者としての人間の自由は定義できない。というのも、現象はいかなる超感性的な客体(ここでは自由な選択意志である)をも理解可能なものにしてくれないからである。また、理性的な主体が自らの(立法する)理性に抵抗するような選択ができるということに、自由があるのではない。経験はこうしたことが生じる(なぜそれが可能なのかということは測りかねるのだが)ということを十分に証明しているとしても、である。〔無差別の自由を擁護する人らは〕一方で(経験)命題を認め、他方ではそれを(自由な選択意志という概念の)説明原理にし、(動物的あるいは奴隷的選択arbitrio bruto s. servoから)区別するメルクマールにもするが、【227】それは前者〔経験命題〕はこのメルクマールが必然的に概念に属しているということは主張していないにもかかわらず、後者にとってはそれが必要になってしまうからである。理性の内的な立法に関係する自由は本来ただ能力であり、この立法から逸脱するという可能性はそのような能力ではない。さて、後者〔理性の立法からの逸脱〕から前者〔自由〕をどのようにすれば説明できるだろうか〔そんなことはできない〕。このような定義は、実践的概念のうえに、さらに経験によって分かるその概念の実行を付け加えてしまっており、概念を誤った光のもとに置くことになる雑種的説明(definitio hybrid)である。

 (道徳実践的)法則とは、定言命法(命令)を含む命題である。法則を通して命令する者(imperans)は立法者(legislator)である。立法者は法則にしたがって拘束を創始する者(autor)だが、必ずしも法則の創始者であるわけではない。後者の場合、その法則は実定的(偶然的)であり、恣意的である。我々自身の理性を通じてア・プリオリに無条件に我々を拘束する法則は、最高の立法者、つまり権利だけを持ち義務を持たない者の意志(したがって神の意志)から生じたものとして表現することができる。しかしこの法則は、自分の意志がすべての人にとって法則となるような道徳的存在者の理念を意味しているにすぎず、その場合でも、この存在者をその意志の創始者として考える必要はない。

 道徳的な意味での帰責(imputatio)は、誰かを、行為(factum)と呼ばれる法則のもとにある行動の創始者(自由原因causa libera)であるとみなすという判断である。判断が、同時にこの行為から法的な帰結を導くなら、法的効力のある帰責(imputatio iudiciaria s. valida)ということになるが、そうでなければ単に判定するだけの帰責(imputatio diiudicatoria)ということになるだろう。法的効力を持って帰責する権能を持つ(自然的ないし精神的 )人格は、裁判官あるいは裁判所(iudex s. forum)と呼ばれる 。

 義務に適っていて、しかも法則にしたがって強制されうること以上のことがなされれば、それは功績がある(meritum)。法則にしたがって強制されうることにだけ適合するようになされたことは、責務(debitum)である 。最後に、責務が求めることより少なくなされたことは、道徳的な過失(demeritum)である。何らかの過失に対する法的な効果は、処罰(poena)である。それに対して、功績のある行為に対する効果は、報酬(praemium)である(この場合に前提とされているのは、法則において約束されている報酬が動機となっているということである) 。【228】振る舞いが責務に適合していても、まったく法的な効果はない。善意の報復(remuneratio s. repensio benefica)は、実際には法的には一切関係がない。

 当然なすべき行為から生じた帰結が良くとも悪くとも――功績のある行為をしなかった場合の帰結と同様に――その帰結は主体には帰せられない(帰責免除の規則modus imputationis tollens)。

 功績のある行為から良い帰結が生じたならば――法に適っていない行為から悪しき帰結が生じた場合と同様に――、その帰結は主体に帰されうる(帰責付加の規則modus imputationis ponens)。

 その行為がどれだけ帰責可能なものか(imputablitas)ということは主観的であり、その際に乗り越えなければならなかった障害の大きさによって評価されなければならない。(感性が受け取った)自然の障害が大きければ大きいほど、また(義務における)道徳的障害が小さければ小さいほど、善行は功績だと評価される。例えば、私がまったく見知らぬ人を相当の犠牲を払って難局から救い出すという場合がそうである。

 これに対して、自然の障害が小さければ小さいほど、また義務の根拠から生じる障害が大きければ大きいほど、それだけいっそう違反は(過失として)〔行為者に〕帰されることになる。したがって、主体がその行為を衝動的になしたのか、あるいは落ち着いて考慮してなしたのかという心の状態によって、帰責の帰結に違いが生じる。

カント『法論』#4(道徳の形而上学への序論#2)

道徳の形而上学への序論

道徳の形而上学への序論
 1.人間の心の能力と道徳法則の関係について
 2.道徳の形而上学の理念と必然性について
 3.道徳の形而上学の区分について
 4.道徳の形而上学への予備概念

この第3節も順序の奇妙さが指摘されている(B. Ludwig)。むしろ第4節→第3節とすべきではないかというのである。参考までに。

3.道徳の形而上学の区分について*1218

 どのような立法(それが内的行為か外的行為のいずれを規定するかにかかわらず、また、外的な行為について、理性のみによってア・プリオリに規定するのか、あるいは他の人の選択意志によって規定するのかにかかわらず)にも含まれるのは、次の二つの部分である。それは第一に法則であり、それはなされるべき行為を客観的に必然的なものとして表象する、すなわち、その行為を義務とするものである。第二に動機であり、それは選択意志をこうした行為へと規定する根拠を主観的に法則の表象と結びつける。法則を通じてその行為は義務として表象されるが、これは選択意志の規定可能性の理論的認識にすぎない。これに対して、動機を通じて、このように行為せよという拘束が、主体における選択意志一般の規定根拠と結び付けられる。

 したがってどのような立法でも(義務とされた行為の観点からすれば、立法が他者の立法と一致する場合、例えば、【219】行為が常に外的であるような場合でも)、それでも動機の観点から区別することができる。ある行為を義務とし、さらにこの義務を同時に動機とするような立法は、倫理的である。しかし、後者〔義務を同時に動機とすること〕を法則に含まない立法、したがって義務の理念そのものとは異なるような動機を許す立法は、法理的である。後者に関してすぐに分かるのは、義務の理念とは異なるこうした動機は、傾向性や忌避感 といった感性的な選択意志の規定根拠から、しかもこうした規定根拠のうち後者の種類の規定根拠〔忌避感〕から、持ちだされてくるに違いない、ということである。というのも、人をある行為へと強制するような立法は、その行為をしたいような気にさせるものではないからである。

 行為の動機を度外視して、ある行為が法則に単に合致しているか合致していないかということをいう場合、これは行為の合法性(適法性)と呼ばれる。他方、行為が法則に合致しているかどうかを問題にし、そこで法則から生じる義務の理念が同時に行為の動機となっているのであれば、それは行為の道徳性(倫理性)と呼ばれる。

 法的立法にもとづく義務はただ外的な義務にすぎない。というのも、この立法は内面のものである義務の理念そのものが行為者の選択意志の規定根拠となることを要求せず、しかし法的立法であっても法則にふさわしい動機を必要とするので、法的立法はただ外的な動機を法則と結びつけるしかないからである。これに対して、倫理的立法は確かに内的な行為を義務とするものだが、しかし外的行為を排除するのではなく、義務たるものすべてに一般に関係する。しかし、倫理的立法は自らの法則のうちに行為の内的な動機を含んでおり、そうした規定は外的立法には決して入り込んではならないのだから、倫理的立法は外的な立法ではありえない(し、神的意志による立法でさえない)。ただし、倫理的立法は他方の、外的立法にもとづく義務を、動機に対して向けられた立法の義務として受け取るのではあるけれども。

 ここから理解されるのは、あらゆる義務はそれが義務であるというただそれだけのために、倫理学に属しているということである。だが、その代わりに、義務の立法がすべて倫理学のなかに含まれるというわけではなく、そのなかの多くのものは倫理学の外部にある。そこで、契約の相手が私を強制しなかったとしても、私は契約のときの申し出を履行しなくてはならないと倫理学が命じるとしよう。しかし〔このとき〕倫理学は、(契約は維持されねばならないpacta sunt servandaという)法則とこれに対応する義務を、法論から与えられたものとして受け取るのである。【220】したがって、倫理学ではなく法論Iusのなかにこそ、為された約束は守られねばならないという立法が属しているのである。そのあとで倫理学はただ、法理的立法がこうした義務と結びつけた動機、すなわち外的強制を取り去ったとしても、義務の理念だけでも動機として既に十分である、ということを教えるだけである。というのも、そうならずに、立法自体が法理的ではなく、立法から発する義務が本来は(徳義務と区別される)法義務ではないとするならば、(契約においてなした約束に)誠実であるということが、善意の行為とその行為への義務付けとともども、一つの分類に入れられてしまうだろうが、このようなことは決してあってはならない。自らの約束を守るということは徳義務ではなく法義務であり、法義務はそれを果たすよう強制されうるものなのである。しかしにもかかわらず、強制が与えられてはならない場合に、それ〔法義務〕を果たすということは、有徳な行為(徳の証明)である。したがって法論と徳論はそれらの異なる義務によって区別されるのではなく、むしろあれやこれやの動機を法則と結びつける立法の違いによって区別される。

 倫理的立法(その義務が外的なものであったとしても)は、外的ではありえない立法である。法理的立法は、外的でもありうる立法である。それゆえ、契約に合致した約束を守るということは外的義務であるが、これが義務であるがゆえにのみ約束を守り、それ以外の動機を考慮しないことを命じる命令は、ただ内的な立法のみに属している。したがって、特別な種類の義務(拘束のある特別な種類の行為)としてではなく――というのも倫理学のなかにも法のなかにも外的義務はあるからである――、むしろ先に述べたケースでの立法は内的なものであり外的な立法者を持ちえないという理由で、その拘束は倫理学に数え入れられるのである。同様の理由で、善意の義務は、それが外的義務(外的行為への拘束)であっても、それでも倫理学に数え入れられるが、それはその立法がただ内的にのみ可能だからである。確かに倫理学には特別な義務(例えば、自分自身に対する義務)があるが、しかし義務が法と共通しているのであって、義務付けの仕方が共通しているのではない。というのも、それが義務であるという理由によってのみその行為を実行し、義務の原則そのものを、それがどこから由来しようとも、選択意志の十分な動機とすることは、倫理的立法の本来的なあり方なのである。【221】したがって、確かに直接的に倫理的な義務はたくさんあるが、しかし内的立法はその他のすべての義務を間接的に倫理的な義務とするのである。

*1:原注 一つの体系の区分の演繹、すなわちその完全性と一貫性の証明は、つまるところ、下位区分の全系列において跳躍すること(跳躍による区分divisio per saltum)なしに区分された諸概念から区分の項目へと移行するということなのだが、これは体系の建築家にとって満たすことの最も難しい条件の一つである。また、正しい・正しくない(aut fas aut nefas)という区分に対する最上位の概念の区分はどのようなものか、ということにも困難がある。これは自由な選択意志の作用一般である。存在論の教師が最上位のものとして有と無から始める場合に、これがすでに区分の項目になっており、区分のためにはなお区分された概念が欠けているということが気づかれていないのと同じである。この場合、その概念とは対象一般の概念にほかならない。

カント『法論』#3(道徳の形而上学への序論#1)

道徳の形而上学への序論

道徳の形而上学への序論
 1.人間の心の能力と道徳法則の関係について
 2.道徳の形而上学の理念と必然性について
 3.道徳の形而上学の区分について
 4.道徳の形而上学への予備概念

以下の「道徳の形而上学への序論」の第1節と第2節は、順番が本来は逆ではないかという指摘がある(cf. Bernd Ludwig)。実際、第2節とされている方から読んだほうが、読みやすいと思われる。  

1. 人間の心の能力と道徳法則の関係について

 【211】欲求能力は、自らの表象を通じて、この表象の対象の原因となる能力である。自らの表象に応じて行為する存在者の能力は、生と呼ばれる。

 欲求・嫌悪と結びついているのは、第一に常に快・不快であるが、必ずしもその逆が成り立つとは限らない。快・不快を受容するものは感情と呼ばれる。実際、対象を欲求することとは結びつかない快もあり、何らかの対象を単に表象することと結びついている快もある(この場合、表象の客体が存在するかどうかには関わりがない)。また第二に、欲求の対象についての快・不快は必ずしも欲求に先立つわけではなく、したがって、必ずしも欲求の対象の原因としてみなさなければいけないわけではなく、むしろその帰結としてみなすことができる場合もある。

 ところで、何らかの表象において快・不快を感じる能力が感情と呼ばれているのは、快・不快が我々の表象との関係において単に主観的なものを含むだけであり、可能な客体の認識における客体との関係を全く含んでいないからである(我々の状態の認識*1における客体の関係さえ含まない)。【212】というのも、そうでなければ、諸感覚自体が、主体の性状によって諸感覚に付随する質(例えば「赤い」や「甘い」)の他に、なお認識の構成要素として客体に関わるということになるだろうが、(赤いや甘いといった感覚における)快・不快は客体についてまったく何も表さず、ただ主体に対する関係だけを表すだけである。快・不快そのものをこれ以上説明することは今述べた理由から不可能であり、快・不快という言葉を使用する際にそれらを識別可能にするために、ある状況で快・不快がどのように帰結するのかということしか述べることはできない。
(それを表象すれば感情が触発されるような対象の)欲求と必然的に結びついている快は、実践的快と呼ばれる。それは欲求の原因か、あるいは帰結かのいずれかである。これに対して、対象の欲求と必然的に結びついているわけではない快、したがって根本的には表象の客体を存在させたいという欲求ではなく、むしろただ表象にのみ附帯するような快は、単に思弁的快あるいは非活動的満足と呼べるだろう。後者の種類の快の感情は趣味と呼ばれる。これについて実践哲学では、固有の概念としてではなく、常にただ挿話として扱われる。これに対して、実践的快について言えば、快が原因として必然的に先行して欲求能力が規定される場合、この欲求能力を規定するものが欲望、また習慣的な欲望は傾向性と呼ばれる。さらに、欲求能力と快が結びつき、この結びつきが(常に主体に対してだけではあるが)普遍的な規則として妥当すると悟性が判断する場合、この結びつきは関心と呼ばれる。それゆえ、この場合、実践的快は傾向性の関心になることになる。それに対して、欲求能力が先に規定されてはじめて快が訪れるという場合、この快は知性的快、この快の対象への関心は理性の関心と呼ばれねばならないだろう。というのも、もし関心が感性的であり、純粋な理性原理にだけ基づいているわけではないなら、【213】感覚こそが快と結び付いているに違いなく、感覚が欲求能力をそのように規定することになるからである。ただ純粋な理性の関心を想定せねばならず、それに対してはいかなる傾向性の関心もあてがうことができないとしても、我々は、語法の都合上、知性的快の対象でしかありえないものに対する傾向性を、純粋な理性の関心から生じた習慣的な欲求として認めることができるだろう。これを認めた上で、にもかかわらず、この知性的快は純粋な理性の関心の原因ではなく帰結であり、感性を欠いた傾向性(知性的傾向性propensio intellectualis)と呼ばれうる。

 さらに、欲情(渇望)は欲求を規定する刺激となるものとして、欲求そのものとは区別されなければならない。強欲は必ず感性的に心を規定するものだが、いまだ欲求能力の働きには至っていない。

 欲求能力を規定し行為へと至らせる根拠が主体自身のうちにあり、客体にあるのではない場合、欲求能力は概念によるものであり、それは任意に何かをしたりしなかったりする能力と呼ばれる。欲求能力が、客体をもたらすための行為が可能であるという意識と結びついている場合、それは選択意志と呼ばれる。他方で、欲求能力がそのような意識と結びついていない場合は、欲求能力の働きは願望と呼ばれる。欲求能力の内的な規定根拠、したがって主体の好みが理性のうちにあるならば、そうした欲求根拠は意志と呼ばれる。それゆえ意志は欲求能力なのだが、(選択意志の場合のように)行為に関係するというよりは、むしろ選択意志を行為へと規定する根拠に関係するものとしてみなされる。意志以前には本来いかなる規定根拠も存在しない。意志が選択意志を規定しうる限りで、意志は実践理性そのものである。

 理性が欲求能力一般を規定しうる限りで、意志のもとには選択意志と、しかしまた単なる願望が含まれている。純粋理性によって規定されうる選択意志は、自由な選択意志と呼ばれる。選択意志がただ傾向性(感性的衝動、刺激)によってのみ規定されるとすれば、それは動物の選択意志(arbitrium brutum)になってしまうだろう。これに対して、人間の選択意志は衝動によって触発されはするが、規定されはしない。したがって、人間の選択意志はそれ自体では(理性を後天的に熟達させることなしには)純粋でないとはいえ、それでも純粋意志によって行為へと規定されうるのである。選択意志の自由は、感性的刺激による規定から独立しているということである。これは自由の消極的概念である。他方、積極的概念は、【214】それ自体で実践的である純粋理性の能力に求められる。しかしこれが可能であるためには必ず、どんな行為においてもその格率が普遍的法則に適したものであるという条件にしたがっていなければならない。というのも、選択意志の客体を度外視して純粋理性が選択意志に適用される場合、純粋理性は原理の能力(ここでは実践的原理の能力すなわち立法能力)として、法則の質料を度外視し、選択意志の格率が普遍的法則に適しているかという形式だけを選択意志の最高の法則かつ最高の規定根拠とするからであり、さらに言えば、人間が主観的な原因から生み出した格率はそれ自体では客観的法則と一致しないため、純粋理性がまさにこの普遍的法則だけを命令と禁止の命法として指定するからである。

 こうした自由の法則は、自然法則と区別して、道徳法則と呼ばれる。自由の法則が、ただ外的行為と適法性〔外的行為が法則に適っているか〕にかかわる場合、それは法理的だと言われる。他方でまた自由の法則が、それ(法則)自体が行為の規定根拠であるべきだということを要求する場合、それは倫理的だと言われる。そこで、前者の法則との一致が行為の合法性、後者の法則との一致が行為の道徳性と言われるのである 。前者の法則における自由は、ただ選択意志の外的な使用における自由だが、他方で後者の法則に関係する自由は、選択意志の外的かつ内的な使用における自由であり、この場合、選択意志は理性法則によって規定されている 。理論哲学においては、このように言われる。空間においては外的感官の対象があるばかりだが、時間においては外的感官と内的感官どちらもの対象がある、というのも、両者はどちらも表象であり、その限りでともに内的感官に属しているからである 。まったく同様に、自由が選択意志の外的使用か内的使用のいずれかにおいて考察されるとしても、しかし選択意志の法則は、自由な選択意志一般の純粋な理性法則として、同時にその自由な選択意志の内的な規定根拠でなければならない。ただし、それは必ずしも内的な規定根拠との関係で考察される必要はないのである。

 

2.道徳の形而上学の理念と必然性について

 外的感官の対象 に関わる自然学がア・プリオリな諸原理を持つに違いないということ、また、【215】この諸原理からなるひとつの体系を形而上学的自然学という名のもとで、特殊な経験に適用されたものである物理学に対して提出することが可能であるどころか必然であること、これらのことは、別のところで証明された。ただし物理学は(少なくともその諸命題が誤謬を免れている限りで)多くの原理を経験の証明にもとづいて普遍的なものとして承認することができる。もちろん、より厳密な意味で普遍的に妥当しなければならないとすれば、その原理はア・プリオリな根拠から導出されなければならないものではあるが。例えば、ニュートンは物体間の作用と反作用の影響が等しいという原理を経験に基づいたものとしてみなし、その原理を言わば物質的自然のすべてに拡張した。化学者はさらに、物質がその固有の力によって結合・分離するという普遍的な法則をあらゆる経験に基礎づけて、言わばその普遍性と必然性を信用し、その物質に対してなされた実験の結果、いかなる誤謬も発見されえない、としている。

 しかし、道徳法則については話が違う。それがア・プリオリに打ち立てられたものであり、必然的だとみなされることができてはじめて、それは法則として妥当する。実際、我々自身と我々の振る舞いに関する概念や判断がまったく道徳的なものでなくなってしまうのは、それらが経験からしか分からない事柄を含む場合である。経験的な源泉から出てくるものを道徳的原則 にしてしまうよう唆されれば、最も粗野で最も破滅的な誤謬を犯す危険に直面することになる。

 もし倫理学が幸福の学と異ならないとすれば、倫理学のためにア・プリオリな諸原理を探してまわっても馬鹿げたことになるだろう。というのも、理性が経験を前にして、どのような手段を用いれば生の本当の喜びを永続的に享受することができるかということを洞察しうるように見えたとしても、しかしそれについてア・プリオリに教えられるものは、トートロジーかあるいはまったく無根拠なものだとみなされるからである。経験が教えることができるのは、我々に喜びをもたらしてくれるのはなにか、ということだけである。食事や性、安寧、運動への自然な衝動、そして(我々の自然の素質から展開される)名誉や知識の拡張などへの衝動は、各人がどこにそれらの喜びを見出すのかを、各人に特殊なやり方で認識させるにすぎないし、またそのようなやり方によって各人が学びえるのは、その喜びを見つけ出すための手段である。この場合、どれほどア・プリオリに理性を用いているように見えたとしても、根本的には、帰納によって普遍性にまで【216】高められた経験以外にはありえない。そうした(普遍的ではなく一般的原理にしたがったsecundum principia generalia non universalia)普遍性はア・プリオリな理性の使用に達するにはいまだ貧弱であり、それゆえに、各人に無限に多くの例外が認められてはじめて、自分の生き方を選択して各人特有の享楽への傾向性や感受性に適合し、最終的に自分自身あるいは他人に起こった損失を通して思慮深くなっていくことができる。

 しかし、道徳に関する学問については話が違う。道徳はすべての人にその人の傾向性を顧慮することなく命令する。その理由、その条件は、ただその人が自由であり、実践理性を持っているからだというだけのことである。道徳法則の教えは、自分自身を観察したり自らのなかの動物性を観察したりすることから、すなわち物事の成り行きを知覚することから創られるわけではない(ドイツ語のSittenは、ラテン語moresと同様に、マナーや生活様式しか意味しないのではあるが)。むしろ、理性がどのように行為するべきかを命じるのであって、そのような実例が見つからないとしても、理性は一切利益を顧慮しないのである。利益というものは、実例を通じて得ることができ、もちろん経験からしか学びえないのだと言われるとしても、である。確かに、理性は我々に可能なあらゆるやり方で利益を求めることを許容するし、それどころか経験が示すことにもとづいて、とりわけそこに思慮深さが加われば、理性の命令を遵守した方がそれを侵犯するよりも総じて大きな利益が得られる、ということが明らかなこともあるかもしれない。しかし、命令として理性が指示する際の権威は、こうしたことに基づいているわけではない。むしろ理性は逆の方へ傾いてしまわないよう均衡を取る錘としてだけ(助言としての)利益を用いるだけであり、それによって、実践的な判断の際に傾いてしまっている天秤の誤りを予め水平にし、そのあとではじめて、純粋実践理性のア・プリオリな根拠という錘を載せて、天秤の傾きを確実にするのである。

 したがって、単なる概念に基づくア・プリオリな認識の体系が形而上学と呼ばれるなら、自然ではなく選択意志の自由を対象にする実践哲学は、道徳形而上学を前提として必要とすることになるだろう。すなわち、道徳形而上学を持つことはそれ自体で義務なのである。実際、どんな人間でも、普通はぼやけた仕方でしかないが、自らのうちにそれを持っている。というのも、ア・プリオリな原理なしに、どうやって人間は自らのうちで普遍的な立法を行うと考えられるだろうか。他方、自然の形而上学においては自然一般の最高の普遍的原則を経験の対象に適用するための諸原理もあるのだが、同様に、道徳形而上学も【217】適用の原理を欠いたままにしておくということはできない。それゆえ、我々は経験を通してしか認識できない人間の特殊な自然〔本性〕をも対象としなければならないことが出てくるだろう。人間の自然に対して、普遍的な道徳原理からの推論を分からせるためである。しかし、そうしたところで、普遍的道徳原理の純粋性が奪われることなどないし、そのア・プリオリな起源が疑わしくなってしまうということもない。言い換えれば、道徳形而上学人間学にもとづくことはできず、むしろ人間学に対して適用することはできる。

 実践哲学一般の区分のうち、道徳形而上学に対応するもうひとつの項目を挙げるならば、道徳的人間学ということになるだろう。しかしそこに含まれるのは、人間の自然における道徳形而上学の法則の執行を阻止したり促進したりする、ただ主観的な諸条件、(育成や学校・人民教育において)道徳の根本原則を生み出したり、拡張したり、強化したりすること、そしてその他同様の、経験に基づいた教えや手引きである。道徳的人間学は欠くことができないものだが、決して道徳形而上学に先行したり、それと混同されたりしてはならない。というのも、もしそうすれば、誤った道徳法則、あるいは少なくとも、甘い道徳法則をもちだす危険をおかしてしまうからである。法則が純粋に見られたり述べられたりしなかったために(純粋性にこそ法則の強みはあるのだが)、また、判断の導きに対しても義務遵守の感情の訓育に対しても確実な道徳の原則を持ち合わせていない、まったく真正でない不純な動機が、それ自体で義務に適った善いものに付け加えられてしまったがために、それゆえにのみ達成できなくなっているだけのものを、誤った甘い道徳法則はまったく達成不可能なものに見せかけるのだ。義務のための指示は、まさにア・プリオリな純粋理性を通してのみ与えられなければならない。

 今述べた事柄〔道徳形而上学と道徳人間学〕の上位の区分は、理論哲学と実践哲学の区別である。後者は道徳哲学にほかならない。しかしこうした区分については、私は既に別のところ(『判断力批判』)で説明しておいた。自然法則にしたがって可能であるどのような実践的なもの(技術本来の働き)であっても、それが与える指示について言えば、自然の理論に依存している。自由法則にしたがった実践的なものだけが理論に依存しない原理を持つことができる。というのも、自然の規定を超えれば、いかなる理論も存在しないからである。したがって、(理論部門に対して)実践部門における哲学は、【218】技巧的な教説ではなく、ただ道徳実践的な教説としてしか理解されないということになる。そして、自然と対立する自由法則にしたがった選択意志の能力を、ここでももし技術と呼ぶとすれば、それは自由の体系を自然の体系のように可能にする技術として理解しなければならないだろう。しかし、それはまさに神的な技術である。理性が我々に指示するものをこの技術によって完全に実行し、理性の理念を実行に移すことができる、ということになってしまうだろうからである。

*1:原注 【211】感性は、我々の表象一般における主観的なものを通して説明可能である。というのも、悟性は第一に表象を客体に関係づける、つまり悟性だけが表象を介して何か〔客体〕を思考するからである。我々の表象の主観的なものは、一方では、認識の客体と(純粋直観である形式か、感覚である質料にしたがって)関係するという性質を持つと言える。この場合、感性は思考された表象を受容するものとして、感官である。他方【212】、表象における主観的なものは、認識の構成要素でありえないこともある。というのもこの場合、それは単に主体に対する関係を含み、使用可能な客体の認識についていかなる関係も含まないからである。だとするとこの表象の受容性は感情と呼ばれる。感情は、表象が主体に対して与える影響(これは感性的でも知性的でもありえる)を含み、表象自体が悟性あるいは理性に属していたとしても、感性に属している。

カント『法論』#2(全体の序文)

〔『道徳の形而上学』全体への〕序文【205】

  実践理性の批判のあとに道徳の形而上学という体系が続かなければならない。それは(すでに出版された自然学の形而上学的基礎*1と並び立つものとして )法論の形而上学的基礎と徳論の形而上学的基礎に分かれる。この後に続く序論では法論・徳論両方の体系の形式を紹介し、部分的には具体的に述べる。

 法論は倫理学の第一部として、理性から生じる体系を要求するものであり、それは法の形而上学と呼ばれうるものである。しかし、法の概念は純粋ではあるが実践(経験に現れる事例への適用)に根ざした概念であり、法の形而上学的体系は分類上、こうした事例の経験的な多様性をも考慮しなければ分類は不完全なものになるのだが(理性のひとつの体系を打ち立てるためには欠かせない要求である)、しかし経験的なものを完全に分類することは不可能であり、(少なくとも完全性に近づくために)それを試みたところで、様々な概念は体系に統合される部分としてではなく、ただ例として注のなかに入れることしかできない。それゆえ、道徳の形而上学の第一部としての唯一適切な表現は、法論の形而上学的基礎というものになるだろう。様々な事例への適用を考慮していては、形而上学的体系さえも期待できないからである。したがってここでもまた(以前の)自然学の形而上学的基礎と同様に考えて、ア・プリオリに構想された体系に属する法を本文で述べ、他方、特殊な経験的諸事例に関係する様々な法を部分的には長めの注で述べることにする。【206】そうしなければ、ここで形而上学とされるものを経験的な法実践とされるものからはっきり区別することができなくなってしまうからである。

 私は、非常によく非難される曖昧さを避けようと思う。つまり、哲学の論文のなかで深遠な洞察をしているのだと見せかけようとして、わざと不明確に書くということを避けようと思う。しかしそのためには、語の第一の意味での哲学者であるガルヴェ氏*2が、とりわけ哲学をする書き手なら誰でも義務としなければならないと述べていることを進んで受け入れ、修正したり拡張したりするという学問の本性が許す限りで、この要求に従うという条件に制限するしかない。

 この賢明な方が正しくも要求しているように(『論文集』352頁以下*3)、どんな哲学的な学問も、それを唱える人が用いる概念が曖昧ではないかと疑われることがないようにするためには、通俗的にならなければならない(一般に十分伝わるよう、感性で分かるようにしなければならない)。私はもちろんこのことを認めるが、ただし理性能力自体の批判の体系、そしてこの批判が決定することを通してのみ明らかにされうる一切のものは例外である。というのも批判の体系は、我々の認識における感性的なものから、超感性的ではあるけれども理性に認められるものを区別するということに基づいているからである。これは決して通俗的にはなりえないし、正式な形而上学一般もまたそうである。もちろん、形而上学の帰結は(形而上学者の無意識の)健全な理性〔常識〕にとってはまったく明らかにされうるのではあるが。ここでは、一切通俗性(大衆の言葉)には配慮せず、むしろたとえ最悪だと非難されようともスコラ的な厳密さがぜひとも必要なのである(つまりこれは学校の言葉なのである)。それによって、性急な理性はドグマ的な主張をする前に、みずからのことをはじめて理解することができるようになるのだから。

 もっとも、(演説台の上で、あるいは通俗書のなかで)学校にしか相応しくない専門用語で公衆に対して語りかけるというようなことをあえてすれば、ペダンティックになろうが、批判哲学者がそれをしても責められはしないだろう。文法学者が、語釈に執着する人(logodaedalus)のような無分別に陥っていると責められることがないのと同じである。嘲笑されるとしても、それはそのペダンティックな人のせいであり、学問のせいではない。

 「批判哲学が現れる以前には哲学はまったく存在しなかった」と主張するなら、尊大で、身勝手で、学問の古めかしい体系をいまだ諦めきれない人を貶めるように聞こえる。【207】こうした傲慢に見える物言いを非難することができるかどうかは、次の問いにかかっている。すなわち、哲学はひとつ以上ありえるのか。様々なやり方で、哲学をし、幸運にもひとつの体系を打ち立てるために理性の第一原理にたちかえるということがなされてきたし、この種の試みは数多くなされてきたに違いない。それらのうちのどれをとっても現代の哲学に寄与している。しかしにもかかわらず、客観的に見れば、人間の理性はただひとつしか存在しえないのであるから、多くの哲学が存在するということもありえない。つまり、諸々の原理からなる理性の体系はただひとつしか存在することができない。人は様々な仕方で、しかもしばしば矛盾をはらみながら、同一の命題について哲学してきたのではあるが。だからモラリストがこう言うのは正しい。徳はただひとつだけであり、その徳の教えもまたひとつだけである、つまりあらゆる徳義務がただひとつの原理によって結び付けられている体系はまた唯一のものである、と。また、化学者も言う。ただひとつの化学があるだけだ、と(ラボアジェ)。医学者も言う。病理的分類体系のための原理はただひとつしかない、と(ブラウン)。しかし、この新しい体系が他のすべての体系を排除しても、先達の(モラリスト、化学者、医学者の)功績を減じるということはない。こうした人らの発見あるいは失敗した試みがなければ、我々は哲学全体の真の原理をひとつの体系のもとに統一することはできなかっただろうからである。したがって、哲学の体系を自分自身の業績として発表する人は誰でも、「この哲学の前には他のいかなるものもいまだ存在しなかった」とでも言っているのに等しい。というのも、他の(真の)哲学が存在したであろうと認めるのならば、同じ対象をめぐって真の哲学が二通り存在することになってしまうだろう。これは矛盾している。それゆえ、批判哲学が自らの前には一切哲学は存在しなかったと主張して自らを提示するとしても、それはただ、ひとつの哲学を自分自身の計画にしたがって構想している人らがしてきたこと、するであろうこと、まさにせざるをえないことをしているにすぎない。

 まったく意味がないとは言わないが、たいして意味のない批判は、こうである。つまり、批判哲学を本質的に際立たせている部分というのは、しかしそれ固有のものではなく、なにか他の哲学(あるいは数学)から借りてきたものだ、というものである。こうした批判こそテュービンゲンのある書評子の発見であり、曰く、哲学一般の定義に関して、『純粋理性批判』の作者はそれを自身の業績で重要なものだと述べているが、それはすでに何年も前に他の人がほとんど同じ表現で述べていたことらしい*4。【208】「言わば悟性によってなされた構成intellectualis quaedam constructio」という言葉が、ア・プリオリな直観において与えられた概念の描出に関する思惟を生み出すことができるかどうか、それによって同時に哲学が数学からはっきりと区別されるかどうかは、皆さんの判断に委ねたいと思う。ハウゼン自身は彼の表現についてこのように説明されるのを受け入れないだろうと、私は確信している。ア・プリオリな直観が可能であるということや、空間はア・プリオリな直観であり(ヴォルフ が説明するように)経験的直観(知覚)に与えられた多様なものが単に互いの外部に併存しているのではないということ、これらにハウゼンはすっかりおののいてしまったのである。彼はこうしたことによって茫漠たる哲学的探求に巻き込まれてしまっていると感じたのだろう。言わば悟性によってなされる描出というものがこの鋭敏な数学者にとって意味しているのは、ある概念に対応するように(経験的に)線を描くことにすぎない。その際にはただ規則に注意が払われるのだが、しかし線を実際に書くとすればその規則からの逸脱は避けがたいはずなのに、そうした逸脱は度外視される。幾何学で方程式を構成する際にこうした逸脱が知覚されるのと同様である。

 しかし、批判哲学の精神にとって最も意味がないのは、批判哲学の猿真似をする人らが『純粋理性批判』の用語をつかって行った迷惑である。この用語は他の普通の言葉ではうまく置き換えることができないものであるが、彼らは『純粋理性批判』以外のところでそれを思考の公共的な伝達のために用いた。これはもちろん叱責に値するが、例えばニコライ氏*5はそれを行ったのである。その用語はあたかも思考の貧困をいたるところで隠すかのように用いられているが、ただしニコライ氏でも、その本来の領域においてそれがまったく無用かどうかについては判断できないとするにとどめるだろう。とはいえ、無論、非通俗的な衒学者のほうが非批判的な愚者よりも笑われることが多い(実際、自らの体系に執着してどんな論難にも応じない形而上学者は、後者に数え入れられるだろう。ただし彼は流布されたくないものを好き勝手に無視するのだが、それはただその批判が旧来の自分の学派に属するものではないからである)。【209】しかし、シャフツベリーが主張するように、(特に実践的)学問の真理についての、軽んじられるべきではない試金石が、それが嘲笑に耐えうるかどうかということにあるとすれば、いつかは批判哲学者が最後にそして最も高らかに笑う番だということになるに違いない。長い間大口をたたいてきた人らの薄っぺらな体系が次々と崩壊し、その追従者は自分が路頭に迷うのを見ることになる。これがそうした人らの眼前にある避けがたい運命である。

 本書の終盤でいくつかの節は、先行する節と比べて、期待されるよりも詳しく書かれてはいない。一方でそれらは先行する節から容易に推論されうるように私には思われたからであり、他方でまた(公法に関係する)最後のいくつかの節に関しては、今まさに多くの議論がなされており、にもかかわらず重要であるため、当座、決定的な判断を下すのを延期することが正当であるからである。

 徳論の形而上学的基礎は近いうちに公表できると考えている 。

*1:『自然学の形而上学的基礎Metaphysische Anfangsgründe der Naturwissenschaft』は1786年に出版された。

*2:クリスティアン・ガルヴェ(Christian Garve, 1742-1798)はドイツ、ブレスラウ出身の哲学者。大学に属さず、当時隆盛を極めていた『ベルリン月報』などの雑誌を著述の場にし、いわゆる「通俗哲学者Populaarphilosoph」に属していた。イングランドスコットランドの経験哲学や感情哲学を採り入れ、カントの理性中心の議論を批判した。カントも『理論においては正しいが実践には役に立たない、という俗言について』(1795)でガルヴェに再反論している。アリストテレスキケロアダム・スミス、アダム・ファーガソンエドマンド・バークなどの翻訳も行った。

*3:Christian Garve, Vermischte Aufsätze welche einzeln oder in Zeitschriften erschienen sind, neu hr. ung verbessert Aufl, Breslau, 1796.

*4:原注【208】「この著書は実際に構成することをまったく不問にしている。知覚可能な図形は定義の厳密さによってまったく作られることはないからである。むしろ必要とされているのは、形式をなすものについての知識であり、形式は言わば悟性によってなされた構成である。Porro de actuali constructione hic non quaeritur, cum ne possint quidem sensibiles figurae ad rigorem definitionum effingi; sed requiritur cognitio eorum, quibus absolvitur formatio, quae intellectualis quaedam constructio est.」C. A. ハウゼン『数学原理』第1部、86頁、1734年(Christian August Hausen, Elementa matheseos, Leipzig, 1734)。

*5:フリードリヒ・ニコライ(Friedrich Nicolai, 1733-1811)は、ドイツの著述家、出版者。ベルリン啓蒙の中心的人物。カントは何冊かの書物をニコライの会社から出版しており、本書もそのひとつである。カントがここで言及している、批判哲学の用語を「公共的な伝達のために用いた」著作は、おそらく『太った男の物語』(F. Nicolai, Geschichte eines dicken Mannes, worin drey Heurathen und drey Körbe nebst viel Liebe, 2 Bände, Berlin, 1794)のことだろう。これは風刺小説で、カント哲学を学んだ青年が実生活で失敗ばかりを重ねてしまうという筋書きになっている。カントはニコライについて、「出版業について」(1798)でも批判している。